『許されざる者』──“裁く者を裁く”イーストウッドの西部劇終焉譚
『許されざる者』(原題:Unforgiven/1992年)は、クリント・イーストウッドが監督・主演を務めた西部劇の金字塔。かつて冷酷な殺し屋だったウィリアム・マニーが、貧困に追い詰められ再び銃を手にする姿を通じて、「人は人を裁けるのか」という普遍的なテーマを描き出す。ジーン・ハックマン演じる保安官リトル・ビルとの対立は、正義と暴力の境界を揺さぶり、西部劇そのものに墓碑銘を刻むラストへと収束していく。
人は人を裁けるのか
「人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん」。
新約聖書の一節が示すように、人間による裁きにはつねに根源的な疑義が伴う。にもかかわらず、社会は秩序を維持するために、人を裁き続けてきた。イエスの言葉を信じるならば、それは人間の傲慢であり罪でもあるのだが、現実には裁かずにはいられない。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』(1992年)は、そのジレンマを映像化した映画である。西部劇というアメリカ映画の古典的ジャンルの内部に、「裁くとは何か」「正義を名乗る資格は誰にあるのか」という命題を埋め込み、血と泥と後悔によって回答を試みた作品だ。
製作当時、すでに西部劇はジャンルとして死に体だった。ハリウッドの黄金期に数多く撮られた勧善懲悪の物語は、1960年代のニューシネマ以降、反体制的視点によって解体され、イタリアのマカロニ・ウエスタンによって暴力の饗宴へと変質していった。
イーストウッド自身、セルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』や、『続・夕陽のガンマン』で世界的スターの地位を得た一人だ。
だが1990年代初頭、冷戦が終結し、アメリカ社会が新たな秩序を模索する時代にあって、イーストウッドは改めて「西部劇」を墓掘り人のように掘り返す。かつて自分をスターに押し上げたジャンルを、今度は自らの手で葬り去るかのように。
“正義”を名乗る保安官と殺し屋
物語の中心にいるのは、ジーン・ハックマン演じる町の保安官リトル・ビルだ。彼は「秩序の守護者」を標榜し、町を守るために暴力を容赦なく行使する。
しかしその姿は、実際には無法者となんら変わらない。法を司る者が、自らの拳と銃によって「正義」を示そうとする時点で、裁きの純度はすでに失われている。
対するイーストウッド演じるウィリアム・マニーは、かつて悪名を轟かせた殺し屋。妻の死をきっかけに改心したものの、貧困ゆえに再び銃を取る。
彼は「悪人を裁くため」と自分に言い聞かせながら、結局は賞金欲しさに血の道へと戻ってしまう。つまり、善悪の区別は表面的にしか存在せず、すべての登場人物が「裁く者」であり「裁かれる者」でもあるのだ。
映画後半、マニーは仲間を殺され、ついにかつての“悪鬼”としての自分を解放する。雨の夜、酒場で繰り広げられる銃撃戦は、西部劇史上もっとも陰惨な一幕といえる。
ここで観客は、長年のイーストウッド映画に潜んでいた「カタルシスと恐怖の両義性」に直面する。彼の銃声は観客に快感を与えると同時に、人間の罪を増幅させる音色なのだ。
イーストウッドはこの場面で、かつて無邪気に量産された“勧善懲悪”の西部劇に墓碑銘を刻む。暴力は決して正義の鉄槌ではなく、血と怨恨の連鎖でしかない。つまり『許されざる者』は、西部劇というジャンルそのものを“裁く”映画なのである。
自己批評としての『許されざる者』
イーストウッド自ら「最後の西部劇」と銘打った本作は、自身のキャリアの総決算でもある。『ダーティハリー』(1971年)以来、彼はしばしば「法では裁けぬ悪を処刑する男」を演じ続けてきた。そのイメージを背負ったまま、彼は『許されざる者』で裁く者を裁く物語を紡ぐ。
つまり、この映画はイーストウッドによる自己批評であり、過去の役柄やフィルモグラフィーを血肉化した懺悔録。観客はマニーの姿に、かつての“ダーティハリー”の影を見出しながら、それを否定する老境のイーストウッドに出会うことになる。
『許されざる者』には、祈りも赦しも存在しない。教会も十字架もほとんど登場せず、人間の行為はすべて神の視線から切り離されている。ここに描かれるのは、神なき世界で人間同士が互いに裁き合う荒野である。
だが後年のイーストウッドは、『グラン・トリノ』(2008年)で教会に足を運び、『クライ・マッチョ』(2021年)で神を信じる姿を見せるようになる。
その変遷を踏まえると、『許されざる者』における神の不在は、むしろ後の“神との和解”への前夜譚のように見えてくる。
その後の系譜──裁きの変奏
『許されざる者』以降も、イーストウッドは裁くことの倫理を問い続けた。『ミスティック・リバー』(2003年)では共同体による“裁き”の暴走を描き、『グラン・トリノ』では自己犠牲によって裁きを放棄する姿を描き、『リチャード・ジュエル』(2019年)や『陪審員2番』(2024年)では、制度による裁きの重責を浮かび上がらせた。
そのすべての源流が、『許されざる者』にある。ここで彼は初めて“裁く者を裁く”という逆説を提示し、それが30年以上の作家活動を貫く中心テーマとなったのだ。
アカデミー賞で作品賞・監督賞を含む四冠に輝いた本作は、単なる成功作ではない。それは西部劇というジャンルの総決算であり、イーストウッド自身のキャリアの懺悔録であり、人間社会における「裁き」の不条理を突きつける哲学的寓話でもある。
我々は『許されざる者』を観るたびに、自分たちもまた誰かを裁き、誰かに裁かれる存在であることを思い知らされる。イーストウッドの放った銃声は、西部の荒野の残響ではなく、現代を生きる我々への問いかけとして鳴り響くのだ。
- 原題/Unforgiven
- 製作年/1992年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/131分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 製作/クリント・イーストウッド
- 製作総指揮/デヴィッド・ヴァルデス
- 共同制作/ジュリアン・ルドウィッグ
- 脚本/デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
- 撮影/ジャック・N・グリーン
- 編集/ジョエル・コックス
- 音楽/レニー・ニーハウス
- 美術/エイドリアン・ゴートン、リック・ロバーツ
- クリント・イーストウッド
- ジーン・ハックマン
- モーガン・フリーマン
- リチャード・ハリス
- フランシス・フィッシャー
- ソウル・ルビネック
- ジェームズ・ウールヴェット
- アンナ・トムソン
- デヴィッド・マッチ
