『BADモード』──フローティング・ポインツとA・G・クックが導く、シルキーなNEW宇多田サウンド
『BADモード』(2022年)は、宇多田ヒカルが約4年ぶりに発表したアルバムであり、フローティング・ポインツとA・G・クックを迎えて制作された。電子音と生音が柔らかく溶け合い、英語と日本語の歌詞が自然に共存する。「BADモード」「One Last Kiss」「Somewhere Near Marseilles」などの楽曲が収録され、デジタルな質感の中に人間的な温度が漂う。長いキャリアの中で新しいサウンド領域を切り開いた一枚である。
精緻なサウンドデザインと声の融解
正直言って、15歳の宇多田ヒカルが1998年に『Automatic / time will tell』で衝撃的にデビューを果たしてから20年余、僕はあまり彼女の良いリスナーではなかった。
R&Bにはチル系のソフトな手触りを求めてしまう自分にとって、彼女のヴォーカルはあまりにも重く、強すぎた。もちろんリリースされるたびにアルバムは聴いてきたが、どの作品もヘビロテ盤には至っていなかった。
だが、約4年ぶりにリリースされた『BADモード』には完全にやられた。浮遊感のあるビートとシルキーな質感が印象的なチル系ネオソウルに変貌を遂げ、これまでの宇多田作品にはなかった音響空間が立ち上がっていたのだ。
一つ一つの音の収まり方は、とても慎ましやか。電子的なパッドや柔らかなベースライン、時折差し込まれるミニマルなパーカッションが、楽曲全体の温かみを演出する。そして宇多田ヒカルの声が、まるで絹のように滑らかに空間を漂い、耳を包み込む。
宇多田ヒカルは90年代後半のR&B以降、作品ごとに音楽的な衣替えを繰り返してきた。『DEEP RIVER』では内省と神性、『ULTRA BLUE』ではデジタルと祈り、『Fantôme』では喪失と再生を描いた。そして『BADモード』で到達したのは、“テクノロジーと感情の融和”というキャリアの到達点である。
フローティング・ポインツとA・G・クックという、いまエレクトロニック・ミュージックで最もイケてる二人をプロデューサーに起用したことで、宇多田サウンドはついに“個”を越え、“時代の音響”へと変貌した。
フローティング・ポインツとA・G・クック──革新のダブル・エンジン
フローティング・ポインツことサム・シェパードは、ジャズ、クラシック、エレクトロニカを縦横無尽に横断するイギリス出身の音楽家/DJ/プロデューサーだ。クラシックの深い理解に裏打ちされた、知的でありながら情感的なダンスミュージックが特徴である。
一方のA・G・クックは、従来のポップの構造を極端にデフォルメし、歪みや反復を大胆に用いる“ハイパーポップ”の旗手。ポップミュージックの限界線を常に押し広げてきた破壊的な革新者だ。
フローティング・ポインツが構築するのは“内省的ミニマリズム”、A・G・クックが描くのは“過剰なデジタル感情”。この二つのベクトルが真逆でありながら、『BADモード』では奇跡的に融け合っている。ひとつの楽曲の中で“静寂と飽和”、“有機と無機”が共存するのは、この二人がプロデュースしているからこそだ。
『BADモード』の最大の革新は、宇多田ヒカルの“声の扱い”にある。従来の彼女の作品では、声は常に中心に置かれていた。しかし今作では、声が“空間の一部”として配置されている。リバーブの深度、コンプレッションの緩やかな設定、倍音の拡散――それらが生み出すのは、声が音場の中で呼吸するという感覚だ。
このアプローチは、フローティング・ポインツの空間設計とA・G・クックのボーカロイド的処理感覚の交錯によって実現している。結果として、彼女の声は“生身”と“機械”の狭間で漂いながら、リスナーの耳に“人間の声とは何か”という問いを突きつけてくる。
時間の波に漂う音の建築
タイトルトラック「BADモード」や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソング「One Last Kiss」などグッド・トラック揃いだが、もっとも深く心に残ったのはM-10「Somewhere Near Marseilles -マルセイユ辺り-」だ。
アンビエントとネオソウルが融け合い、繊細なサウンドデザインが空間を満たす。無駄な装飾を排したミニマルなリズム。メロウなフレージングが楽曲全体に溶け込み、やがて声が潮の満ち引きのように消えては現れる。その反復が、まるで聴覚的映画のようだ。
10分を超える長尺の中で、クラブ・ミュージックの“時間の流れ”とポップスの“旋律の記憶”が交錯する。周波数帯のわずかなズレが生む幻聴のような残響。音はループしながら、少しずつ変質していく。その構造は、静かに発熱する都市の風景にも似ている。
児玉裕一が監督を務めたMVも最高 of 最高。八景島シーパラダイスで撮影された12分超の縦型映像作品。夜の水族館がダンスフロアへと変わるその映像は、“閉じられた世界の祝祭”を完璧に視覚化している。
そして『BADモード』では、日本語と英語が完全に共存している。日本語の柔らかな母音がシンセの余韻と共鳴し、英語の子音がビートの一部として溶け込む。
彼女のバイリンガル性はもはや“翻訳”ではなく、“デュアル・ヴォイス”として機能しているのだ。言語をまたぐことで、彼女の声はより抽象的な“音”へと昇華していく。
そしてタイトルの“BAD”は、ネガティブではなく、制御不能を受け入れるモードとしての“BAD”。完璧さを拒否し、揺らぎを受け入れる。感情のノイズをそのまま音楽に変える。宇多田ヒカルは、整った世界よりも“壊れた美しさ”を選び取った。
『BADモード』とは、混沌を抱きしめる音楽である。音は漂い、言葉は溶け、心は少しずつ軽くなる。いまこの時代に必要なのは、きっとこのやわらかな不安定さなのだろう。
- アーティスト/宇多田ヒカル
- 発売年/2022年
- レーベル/エピックレコードジャパン
- BADモード
- 君に夢中
- One Last Kiss
- PINK BLOOD
- Time
- 気分じゃないの (Not In The Mood)
- 誰にも言わない
- Find Love
- Face My Fears (Japanese Version)
- Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー
- Beautiful World (Da Capo Version)
- キレイな人 (Find Love)
- Face My Fears (English Version)
- Face My Fears (A. G. Cook Remix)
