『Selected Ambient Works Volume II』──音の“名前”を失ったアンビエント
『Selected Ambient Works Volume II』(1994年)は、エイフェックス・ツイン(Aphex Twin)が前作『Selected Ambient Works 85-92』に続いて発表した二作目のアンビエント作品。前作がビートとメロディを持つテクノ的構造を備えていたのに対し、本作では大半の楽曲に正式なタイトルが付けられておらず、写真とグラフィックによって識別される方式が採用された。収録曲の多くはリズムを欠き、明確な旋律を持たない持続音とノイズのみで構成され、音のわずかな変化が展開の役割を担う。
意識の深層へ沈む音響建築──“夢を見るアンビエント”の再定義
エイフェックス・ツインことリチャード・D・ジェームスが『Selected Ambient Works 85-92』(1993年)で提示したのは、当時のテクノ・シーンでは異例とも言える、柔らかく親密なアンビエント・テクノの風景だった。
しかし続く『Selected Ambient Works Volume II』(1994年)は、その延長線にありながらも、音響構造と聴取体験の両面で急激な変容を示す。本作は“アンビエント”という名称を保持しつつ、その意味を根底から書き換える企図で構築されている。
ジェームス自身は明晰夢(ルシッドドリーム)から着想を得たと語り、「パワーステーションの内部でサイケデリックな体験をしている感覚」とも比喩する。つまり本作は、夢という無意識領域と機械的・人工的な音世界が折り重なる、精神空間の再構築である。
さらに象徴的なのは、ほぼすべてのトラックに正式な曲名が不存在であることだ。それぞれの曲は抽象写真やグラフで識別され、聴取主体は視覚と聴覚の連動を強制される。これはジェームスの共感覚的思考──色や形状で音響を認識する知覚法──を、そのまま作品に転写する試みだ。
ここでのアンビエントは背景音楽ではなく、意識の焦点を強制的に移動させる装置となっている。M-1「Cliffs」は霧のようなドローンで幕を開け、揺らぐパッドと金属ノイズが人格なき音響空間を創出する。
リズムは排除され、聴く側は“自ら音を探す姿勢”を強いられる。これは従来のアンビエントが前提としてきた「環境に溶け込む音楽」とは逆方向の態度であり、音響が環境そのものに変化する瞬間である。
音響の虚無と身体反応──“背景音楽”を拒絶する耳の緊張
本作のトラック群に共通するのは「宙吊りの時間感覚」である。リズムもメロディも欠如しながら、空間には常に密度をもった緊張が漂い続ける。M-2「Rhubarb」は、前作のチルアウト的要素を徹底的に抽象化し、柔らかな持続音を揺らぐ息づかいのように反復する。
しかし、安堵感は持続せず、すぐに孤絶した静寂が訪れる。音の間隙は沈黙ではなく、不安定な揺らぎそのものである。続くM-3「Radiator」では低域のわずかな歪みが残響の奥で脈動し、身体の深部が反応するような錯覚を誘発する。
ビートがないにもかかわらず、音のウェイトが聴き手の内部に沈み込むように配置されるため、耳だけでなく身体内部の鼓動が音響に同調していく。
M-4「Stepping Stones」とM-5「Places That Don’t Exist」は、フィールド録音とシンセの揺らぎがゆっくりと現れては消える反復的構造を持ち、ジェームスはここで「アンビエント=消費される空気」という概念を反転させる。
音が空間に溶けるのではなく、空間が音響へ収斂するのだ。この作品において、アンビエントは“聴き流すもの”ではなく“聴くこと以外を許さないもの”へ変容している。
M-6「Weathered Stone」は極端な孤絶感を伴う。微細ノイズは霧のように空間を漂い、残響は意図的に長引かされている。聴き手が音を追いかける時間そのものが作品の一部になり、音響の消滅を待ち続けるという行為が、不可視の緊張を生む。
この“待たされること”こそが本作の構造的暴力であり、同時に陶酔の条件となる。後半に進むほど、曲はより抽象化され、M-7「Patience Lost」やM-8「Fractions」に至るころには、ほぼすべての旋律的要素が蒸発し、音響の差異のみが空間の秩序を形成する。
これは「聴く主体が能動的でなければ成立しない音楽」である。音の変化を追跡し続ける耳だけが、このアルバムの内部構造を感受できる。
アンビエントの解体と再構築──“無音の地図”としてのVolume II
本作の最終トラック「Blue Calx」は、ドローンと微細ノイズを重ねながら、終わりのない余韻を提示する。そこに解放感はなく、むしろ深い孤独と暗室に閉じ込められたような感覚が漂う。
しかし、この「居心地の悪さ」こそが本作の狙い。『Selected Ambient Works Volume II』は、アンビエントというジャンルに期待された“快適さ”を完全に拒否し、音楽の中へ沈降するしかない密閉空間を聴き手に強制する。
その構造は、従来のアンビエントに潜んでいた“環境音楽”という前提を破壊し、意識の深層へ向かう音響回廊へと変換する試みである。
本作が1994年という時代に登場した意義は大きい。当時、電子音楽はテクノ/IDMへと細分化し、クラブミュージックと知的リスニング音楽は乖離しつつあった。
ジェームスはその縦割り構造を拒否し、両者を超える“沈潜する音響体験”を設計することで、リスナーの身体と意識を同時に巻き込む聴取モードを提示した。
ここにはビートも解放も存在しない。あるのは音響の濃淡と持続だけであり、聴取主体はその内部で方向感覚を喪失し続ける。本作の影響下に生まれた作品は数多いが、誰もこの孤立した世界観そのものを再現できてはいない。
その意味でVolume IIは「アンビエントの内部にある暗黒領域」を可視化した唯一の地図であり、空間と意識の境界線を引き直す音響実験である。
アンビエントでありながらアンビエントではない──その矛盾こそが、ジェームスの音楽が時代を超えて生き続ける理由だ。
- アーティスト/Aphex Twin
- 発売年/1994年
- レーベル/Warp
- Cliffs
- Radiator
- Rhubarb
- Hankie
- Grass
- Mould
- Curtains
- Blur
- Weathered Stone
- Tree
- Domino
- White Blur 1
- Blue Calx
- Parallel Stripes
- Shiny Metal Rods
- Grey Stripe
- Z Twig
- Windowsill
- Stone in Focus
- Hexagon
- Lichen
- Spots
- Tassels
- White Blur 2
- Matchsticks
