『歩いても 歩いても』(2008)ずれ続ける家族の時間と、静かに刺さる記憶

『歩いても 歩いても』(2008)
映画考察・解説・レビュー

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『歩いても 歩いても』(2008年)は、夏の終わりに開かれる長男の命日をきっかけに、両親と長女、次男一家が実家へ集まる一日を描く。開業医だった父と医院を継がなかった次男の間には小さな緊張が残り、母は長男を思い続けながら来訪者を迎える。長女は家庭の近況を語りつつ家族の歩調に合わせ、次男の妻は子連れ再婚という背景を気にかけながら場に溶け込もうと努める。会話や食事が何気なく進む中で、それぞれが抱える過去の出来事や距離感がにじみ、家族の時間が微妙にずれたまま続いてきたことが明らかになっていく。

失われたホームドラマと“あるある”の記憶装置

この世で最もスリリングなエンターテインメントは、ゾンビが走る映画でも、宇宙人が襲来する映画でもない。久しぶりに帰省した実家で、母親が笑顔で「毒」を吐き、父親が無言で背中を向ける……そんな逃げ場のない数時間を描いた『歩いても 歩いても』(2008年)である。

思い返してみれば、かつてテレビのど真ん中に君臨していたのはホームドラマだった。『ありがとう』(1970年)では山岡久乃と水前寺清子がギャーギャーと喧嘩し、『寺内貫太郎一家』(1974年)では小林亜星がちゃぶ台をひっくり返して暴れまわる。あの頃の茶の間には、家族の喧騒こそがエンタメだという熱気が渦巻いていた。

寺内貫太郎一家
TBS

だが、高度経済成長が終わり、核家族化が進むにつれて、家族の形は個室化し、ホームドラマは絶滅危惧種へと追いやられる。今のテレビ欄を見てみれば、誰が殺されただの、誰と誰がキスしただのばかり。

そんな時代に、是枝裕和はあえて「何ごとも起きない実家の一日」を映画にした。だが油断してはいけない。ここで描かれる平熱のリアリティは、サスペンス映画よりも遥かに心臓に悪い。

映画が始まった瞬間、我々はタイムスリップしたような錯覚に陥る。夏の終わりの湿った空気、とうもろこしの天ぷらが揚がる音、四角い電気傘、そして浴室の手すり……。画面に映るすべてのディティールが、「うちの実家にもあった」という強烈な既視感(デジャヴ)を呼び覚ます。

もはや演出というよりも、記憶のダウンロード。是枝監督は、亡き母と暮らした実家の記憶を、物理的にフィルムの上に再構築しようとしたらしい。つまり、この映画に漂うノスタルジーは、オシャレなレトロ趣味などではなく、監督自身の個人的な執念が生み出した「本物の残り香」なのだ。

だからこそ、観客である我々は、単に映画を観ているというより、親戚の家に無理やり居候させられているような、居心地の悪さと懐かしさが入り混じった奇妙な感覚に襲われるのである。

特に驚愕すべきは、YOU演じる長女のリアリティ。彼女の「耳年増な叔母さん」っぷりは、演技という次元を超えている。台本があるとは到底思えない、あの軽妙な無責任さ!実家に帰るなり冷蔵庫を勝手に開け、「これ賞味期限切れてるよ〜」なんて言いながらつまみ食いする姿は、全人類の姉や妹の集合体である。

是枝マジックの真骨頂は、こうした「生活のノイズ」を一切排除せず、そのまま映画のグルーヴとして取り込んでいる点にある。劇的な事件など起きなくても、台所から聞こえる野菜を切る音や、遠くで鳴るセミの声だけで、映画はこれほどまでに豊かになれるのだと証明してしまったのだ。

静かなる心理戦という名のホラー

この映画の真の主役は、阿部寛でも原田芳雄でもない。家の中心にドカリと座る、樹木希林演じる母親である。彼女の演技は、アカデミー賞などという枠には収まりきらない。もはや「妖怪」の域に達していると言っても過言ではない。

一見すれば、愛想のいい田舎のおばあちゃん。だが、その笑顔の裏には、15年前に長男を亡くしたという癒えない傷と、そこから滲み出る怨念のような執着がべっとりと張り付いている。

この一家は、優秀だった長男・純平が溺死したあの日から、時計の針が止まってしまっている。開業医だった父(原田芳雄)は引退してもなお聴診器を手放せず、次男の良多(阿部寛)は「死んだ兄の代わり」を期待されるプレッシャーから逃げるように生きている。そして母は、長男の命日になると、あえて「長男が助けた少年」を家に招く。

ここでの樹木希林のセリフが、ホラー映画よりも恐ろしい。「あの子には、年に一度くらい苦しい思いをしてもらわないとね」。思わず映画館の座席でのけぞってしまった。

彼女は決して悪意の塊ではない。ただ、愛する息子を失った痛みを、誰かに転嫁せずにはいられない「業」を背負った母親だ。レコードから流れる「ブルー・ライト・ヨコハマ」に合わせて彼女が手を振るシーンの、あの何とも言えない不気味さと哀切さ。まるで死者とダンスをしているかのようなその姿は、日本の映画史に残る名シーンであると断言したい。

いしだあゆみ ベストアルバム ~ブルー・ライト・ヨコハマ
いしだあゆみ

そして、この「止まった時間」に翻弄されるのが、次男の良多(阿部寛)である。彼は実家にいながら、常に居心地が悪そうだ。失業中であることを隠し、子連れ再婚の妻(夏川結衣)と連れ子を伴っての帰省。父とは目も合わせられない。

この映画における「家族の会話」は、一見噛み合っているようで、実は全員が違う方向を見ている「マルチ・アングル・ディスコミュニケーション」なのだ。

父は過去の栄光を見ている。母は死んだ長男を見ている。そして良多は、今の自分を認めてほしいのに、誰も今の彼を見ていない。この絶望的なすれ違い。

食卓は賑やかなのに、心の中は全員が孤独。これぞ「現代の核家族」のリアルな縮図。是枝監督は、安易な仲直りや感動的な抱擁など一切用意しない。ただ淡々と、ズレ続ける家族の時間を残酷なまでの精度でスケッチし続ける。

その冷徹な視線があるからこそ、逆に家族という絆の「切れそうで切れないしぶとさ」が浮き彫りになるのだ。

人生の残酷さと、それでも歩き続けるための肯定論

映画の終盤、良多がポツリと漏らす一言が、この映画のすべてを物語っている。「いつも、ちょっとだけ間に合わないんだよな」。いや、これこそが人生の真理ではないか?

多くの映画では、クライマックスで主人公が走り出し、土壇場で愛を叫び、ギリギリで間に合う。しかし現実はどうだろう。親孝行しようと思ったときには親はいない。謝ろうと思ったときには相手は去っている。大事なことは、いつだって数秒、数日、数年遅れてやってくる。『歩いても 歩いても』は、この「残酷なタイムラグ」を肯定する映画なのだ。

バス停で別れるとき、父と良多はぎこちなく握手をする。だが、それが「和解」だったのかどうかは誰にもわからない。その後、ナレーションで語られるのは、劇的な奇跡など起きなかったという事実だ。

父は死に、母も追うように逝く。結局、良多は親が生きている間に、本当の意味での「理想の息子」にはなれなかったのかもしれない。だが、それでも人生は続く。「間に合わなさ」を抱えたまま、残された者たちは自分の家族を作り、また歩いていく。

この映画が素晴らしいのは、そんな不完全な私たちを「それでいいんだよ」と静かに許してくれるところにある。完璧な家族など存在しない。誰もが心のどこかに小さな棘を刺したまま、平気な顔をして天ぷらを食べている。それでいい。

とうもろこしの天ぷらの作り方を娘に教えるシーンで、母の記憶は形を変えて継承されていく。血の繋がりとは、美しい愛の物語だけではない。怨念も、後悔も、レシピも、すべてひっくるめて受け渡されていく「業のバトンリレー」なのだ。

ラストシーン、カメラは俯瞰で道を歩く良多たちを映し出す。彼らは歩く。ただひたすらに歩く。『歩いても 歩いても』というタイトル通り、完全にはわかり合えないかもしれない。でも、歩き続けることでしか見えない景色がある。

この映画は、絶滅したと思われていたホームドラマの灰の中から蘇った、現代人のための「鎮魂歌(レクイエム)」であり、同時に「応援歌」なのだ。

DATA
  • 製作年/2008年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/114分
STAFF
  • 監督/是枝裕和
  • 脚本/是枝裕和
  • 製作/加藤悦弘、田口聖
  • 原作/是枝裕和
  • 撮影/山崎裕
  • 音楽/ゴンチチ
  • 編集/是枝裕和
  • 美術/磯見俊裕、三ツ松けいこ
  • 衣装/黒澤和子
  • 録音/弦巻裕、大竹修二
  • 照明/尾下栄治
CAST
  • 阿部寛
  • 夏川結衣
  • YOU
  • 高橋和也
  • 田中祥平
  • 寺島進
  • 加藤治子
  • 樹木希林
  • 原田芳雄
FILMOGRAPHY