2017/10/23

『ブギーナイツ』(1997)映画に人生を託した者たちの、疑似家族の興亡史

『ブギーナイツ』(1997)
映画考察・解説・レビュー

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古今東西、ワンシーン・ワンカットにチャレンジした映画作家は少なくない。

古くはアルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』(1948)、オーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958)、ブライアン・デ・パルマの『スネーク・アイズ』(1997)などなど。かのプリンセス天功がスーパーバイザーを務めた『浅草堂酔夢譚』(2011)なる映画も、上映時間99分を全部ワンシーン・ワンカットで撮っているらしいが、まあそんな話はどーでもよろしい。

要は何を申し上げたいかというと、ワンシーン・ワンカットって言うのは簡単だけど実際準備するのはすごーく大変だ、ということである。

  1. 綿密なリハーサルが必要なので役者からは文句言われる!
  2. カメラポジションやらライティングやら入念なセッティングが必要なのでスタッフからも文句言われる!
  3. 時間も金もかかるのでプロデューサーからも文句を言わる!

どいつもこいつも文句だらけ。誰もこんな煩わしいことしたくないのだ。しかし、シネマホリックであれば誰しもがその誘惑にかられてしまう映像的冒険、それがワンシーン・ワンカットなんである。

鬼才ポール・トーマス・アンダーソンが26歳にして上梓した群像劇『ブギーナイツ』もまた、オープニングからワンシーン・ワンカットに挑んだ作品だ。

カメラが「ブギーナイツ」と書かれた看板をぐるぐると回転しつつ映し出すと、やがて往来から喧騒渦巻くクラブの中へとゆっくり潜入し、バート・レイノルズ、ドン・チーゲル、ヘザー・グレハム、ジュリアン・ムーアといった面々のやりとりが語られる。

それ自体は特に何も特筆すべき点はないのだが、留意すべきなのは、ビデオ全盛時にあって映画産業が凋落する「時代の変わり目」ともいうべき中間部と、各登場人物の「その後」が描かれるエンディング・シーンにおいても、ワンシーン・ワンカットの長回しが採用されていること。始点と中間点と終点、合計3シーンもこんなことするなんて、はっきりいって狂気の沙汰。

何故、ポール・トーマス・アンダーソンは七面倒くさいことを敢行したのか?それは、映画産業の「隆盛」、「凋落」、「復興」を同じワンシーン・ワンカットで見せることによって、時代の変遷を表象するという目論見もあったのだろうが、「映画」を手がかりにして彼らが疑似家族を形成していく様子を活写する、という理由があったものと推察する。

そう、映画産業のスタジオが林立しているサンフェルナンド・バレーを舞台に、ポルノ・ムービーの隆盛と衰退を描いた『ブギーナイツ』は、疑似家族のドラマでもあるのだ。

エディ(マーク・ウォルバーグ)は、ヒステリックな母親にたまりかねて家を飛び出しているし、アンバー・ウェイブス(ジュリアン・ムーア)は重度の麻薬中毒者だったため、裁判所から実の息子と会うことを禁止されている。

オツムの弱いローラーガール(ヘザー・グレハム)なんぞ、親の愛情を知らずに育ったためか、アンバーに向かって「おかあさあああああん!!」と絶叫する始末。彼らはポルノ映画を拠り所にした疑似家族なんである。

プロダクション・マネージャーのリトル・ビル(ウィリアム・H・メイシー)の自殺に端を発し、彼らは「映画」から離れようとする。しかし散り散りになった疑似家族を待っていたのは、社会からの強烈な偏見と憎悪だった。

本来であれば、ポルノ・ムービーの凋落と共に「一時代昔」の彼らも凋落する姿を描ききってFINにする筋書きもあり得ただろう。

しかしポール・トーマス・アンダーソンは、この疑似家族がもろくも崩壊することを、最後の最後で躊躇する。そこに、希望の光は差し込まないことを知り尽くしていながら。なぜなら、映画を愛する者の失墜を描くことは彼の本意ではなかったからだ。

フランソワ・トリュフォーが『アメリカの夜』(1973)で、あるいはジュゼッペ・トルナトーレが『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)で映画愛を赤裸裸に告白したように、ポール・トーマス・アンダーソンもまた映画愛を語っている。

ポルノ・ムービーを隠れ蓑に、シニカルな視座をたっぷり注ぎ込みながら。

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