【ネタバレ】『クローサー』(2004)
映画考察・解説・レビュー
『クローサー』(原題:Closer/2004年)は、パトリック・マーバーの同名戯曲を原作に、マイク・ニコルズが四人の男女の愛と裏切りを描いた心理劇。ダン(ジュード・ロウ)、アンナ(ジュリア・ロバーツ)、ラリー(クライヴ・オーウェン)、アリス(ナタリー・ポートマン)が、真実と嘘のあいだで心をえぐり合う。
“空白”が語る関係の崩壊と残酷なスキップ
ハッキリ言おう。『クローサー』(2004年)は、運命の出会いや恋のよろこびを甘く謳い上げた、ロマンティックな映画では断じてない。恋が燃え上がる瞬間と、無惨に終わる瞬間のあいだにポッカリと広がる、底知れぬ虚無と欺瞞を冷徹に観察した恐るべき映画だ。
恋とは本来、心の奥底に沈殿している感情が水面に浮かび上がることを指すはず。しかし、巨匠マイク・ニコルズ監督が本作で容赦なく描き出すのは、浮上した感情がどのようにドロドロに腐敗し、やがて悪臭を放ちながら再び沈んでいく、極めてグロテスクな過程である。
パトリック・マーバーの同名の大ヒット戯曲を原作とするこの映画は、ダン(ジュード・ロウ)、アンナ(ジュリア・ロバーツ)、ラリー(クライヴ・オーウェン)、アリス(ナタリー・ポートマン)という四人の男女が、嘘と真実のあいだで繰り広げる四角関係の恋愛劇だ。
原作者のマーバー自身が映画の脚本も手掛けているため、台詞は演劇的に恐ろしいほど研ぎ澄まされ、言葉そのものが鋭利な暴力性を担っている。
ロンドンという匿名性の高い冷たい都市空間の中で、彼らは出会いと裏切りを繰り返し、愛という幻想をただ自己確認の道具として消費していく。
ニコルズは、恋愛を感情の美しい交流としてではなく、エゴが衝突する自己演出の舞台として描く。そこには甘さも、一切の救いもない。残るのは、裸の言葉とむき出しの欲望だけだ。
この映画を決定的に異質なものにしているのが、極端な時間の断絶である。シーンとシーンのあいだには数ヶ月、あるいは1年以上の空白が平気で存在し、それが親切なキャプションで示されることもない。観客は唐突に、彼らの恋愛の結果だけを知らされ、愛が育まれたり冷めたりする過程は完全にスキップされるのだ。
ダンとアリスが出会って見つめ合った次の瞬間には、すでに同棲して倦怠期を迎えている。アンナとラリーが水族館で出会った次の場面では、もう結婚生活が始まっている。そしてその結婚もまた、いきなり終わりを告げる。
こうした乱暴なまでの時間の飛躍は、恋愛という行為そのものが持つ不連続性を恐ろしいほど可視化している。愛は一体いつ始まり、いつ終わったのか。その境界線は本人たちにすら分からない。
ニコルズはこの省略を観客の想像力に優しく委ねるのではなく、むしろ暴力的な断絶として突きつけてくる。恋愛とは、常に断片でしか存在しない。そこにあるのは、始まりと終わりの無限ループと、その中間を喪失した空っぽな人々の空白の時間なのだ。
言葉を凶器に変える、愛の拷問
『クローサー』における会話は、すべてが血みどろの戦いだ。誰もが真実を語ることが愛の証だと頑なに信じているが、その行為自体が相手をメッタ刺しにする凶器として作用する。
マイク・ニコルズの妻であり著名なジャーナリストのダイアン・ソウヤーは、この作品を「嘘をつく重要性を描いた映画」と評したが、言い得て妙。この物語の核心を完璧に突いている。
登場人物たちは、互いの痛い秘密を暴くことでマウントを取り、暴露がもたらす激しい痛みの中でしか愛を実感できないという重病に罹っている。
ジュード・ロウ演じるダンは、恋愛のロマンチストを気取りながら、愛の名のもとに平気で他者を所有しようとする卑怯者だ。ジュリア・ロバーツ演じるアンナは正直であることに異常に執着し、クライヴ・オーウェン演じるラリーは、そのマッチョな誠実さを相手を支配するための道具として振りかざす。
そしてナタリー・ポートマン演じるアリスは、もっとも無垢でピュアな存在に見えながら、自分の名前すら偽っているという究極の嘘つきである。
誰もが真実を求めながら、それを関係を破壊するための道具として用いている。ここでの恋愛の会話は、癒しなどではなく完全な拷問だ。ニコルズは、言葉を鋭いメスのように使い、登場人物たちの取り繕った関係を一枚ずつ剥ぎ取っていく。そこにあるのは、愛という名目で行われる残酷な人体実験である。
マイク・ニコルズは、『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)で映画界に衝撃を与えて以来、人間関係のドロドロの心理的拷問を可視化してきた。
『卒業』(1967年)では世代の倦怠を描き、『シルクウッド』(1983年)では組織の倫理の崩壊を描く。『クローサー』は、そんな彼のキャリアの終盤に位置する、極めて完成度の高い臨床映画である。
彼のカメラは、決して人物に寄り添わない。クローズアップであっても、冷徹な観察者としての距離感を保ち続ける。これほどまでにドロドロの愛憎劇でありながら、ニコルズはラブシーンでさえ官能的に描くことを拒絶し、むしろ行為の不自然さや、事後の虚無だけを露わにする。
セックスは愛の証などではなく、単なる取引の延長線上にある行為に過ぎない。ここでは生々しい身体さえも、言葉の代償物でしかないのだ。
ストリッパーのアリスは、その最たる象徴だ。彼女は観客(=男たち)の欲望を映し出す完璧なスクリーンであり、同時に彼らの空っぽな虚無を映す鏡でもある。
ナタリー・ポートマンがストリップクラブでラリーを挑発するシーンは映画史に残る緊張感だが、決定的なヌードシーンが削除された(見せなかった)のは偶然ではない。
それは、観客が“欲望を安全圏から凝視する快楽”を拒絶するための、ニコルズの強烈な倫理的判断だ。見せないことで、より残酷に見せる。それこそが、『クローサー』の貫く圧倒的な美学なのだ。
“Closer”というタイトルの痛烈な皮肉
『クローサー(Closer)』というタイトルは、文字通り“より近くに”という意味を持つ。しかし、この映画が全編を通して提示し続けるのは、人間同士が本当の意味で近づくことの絶対的な不可能性だ。
人はどれだけ身体を激しく重ね合わせ、秘密を共有した気になっても、心は決して触れ合うことはない。むしろ近づけば近づくほど、他者の底知れぬ不可解さと、自分自身の孤独が残酷なまでに露呈するだけ。
映画のラスト、ニューヨークの雑踏の中でパスポートのスタンプが映し出され、アリスの口から衝撃的な真実が告げられる。「私の名前はアリスじゃない」。この一言は、全編にわたって描かれてきた親密さの崩壊を象徴する、最高のパンチラインだ。
ダンとアリスは互いに名前を呼び合い、愛を囁き合っていたにもかかわらず、男は結局、女の本当の名前すら知らなかった。愛とは、他者が作り上げた虚構を互いに信じ込むことで初めて成立する、危うい演技に過ぎないのだ。
マイク・ニコルズはここで、恋愛を“真実の共有”という美しい幻想から引き剥がし、“虚構の共同作業”として再定義してみせる。相手のすべてを知ろうとし、真実を語らせることは、しばしば関係を修復不可能なまでに破壊する。だからこそ、人は関係を維持するために嘘を必要とするのだ。
ダミアン・ライスの名曲『The Blower’s Daughter』の切ないメロディに乗せて、群衆の中を歩き去る彼女の姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも空虚である。
『クローサー』は、誠実さという名の暴力を徹底的に暴き、愛の欺瞞をこれ以上ないほど美しくスクリーンに照射したのだ。
- 監督/マイク・ニコルズ
- 脚本/パトリック・マーバー
- 製作/ケイリー・ブロコウ、ジョン・コーリー、マイク・ニコルズ、スコット・ルーディン
- 製作総指揮/セリア・コスタス、ロバート・フォックス
- 原作/パトリック・マーバー
- 撮影/スティーヴン・ゴールドブラット
- 音楽/モリッシー
- 編集/ジョン・ブルーム、アントニア・ヴァン・ドリムレン
- バージニア・ウルフなんかこわくない(1966年/アメリカ)
- クローサー(2004年/アメリカ)
![クローサー/マイク・ニコルズ[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/810KwCarFLL._AC_SL1500_-e1758994055202.jpg)