『クライング・ゲーム』(1992)
映画考察・解説・レビュー
『クライング・ゲーム』(原題:The Crying Game/1992年)は、北アイルランド紛争を背景に、IRA兵ファーガスと英国兵ジョディの関係、そしてロンドンで出会うディルとの愛を描いた物語。政治と暴力の中で芽生える共感が、やがて性とアイデンティティの境界を越える寓話へと変化する。赦しと変容のドラマが静かに展開される。
甘いラヴソングの罠と、IRAの崩壊
『クライング・ゲーム』(1992年)は、パーシー・スレッジの不朽の名曲「When a Man Loves a Woman」が流れるなか、移動遊園地で戯れる英国兵ジョディ(フォレスト・ウィテカー)とブロンド美女の姿から幕を開ける。
だがニール・ジョーダン監督は、この甘いラヴソングを、観客を油断させるための周到なミスリード)として配置した。なぜなら、この映画の本質は「男が女を愛する時」の話ではない。「男が男を愛する時」、あるいは「人間が人間を愛する時」の、もっと複雑で流動的な物語だからだ。
前半の舞台は北アイルランド。IRAのテロリストグループが、ジョディを誘拐・監禁する。ここで描かれるのは、IRAという組織特有のホモソーシャル的世界だ。主人公のファーガス(スティーヴン・レイ)は、人質であるジョディの見張り役を任されるが、やがて二人の間には奇妙な友情が芽生える。
ジョディは「お前は優しい男だ。人を殺せる目をしていない」と言う。敵と味方、看守と囚人。政治的な対立構造の中に、個としての共感が侵入してくるプロセスを、ジョーダンは繊細に描く。
やがてジョディは、ファーガスに「サソリとカエル」の寓話を語り始める。
サソリは川を渡るためにカエルの背中に乗るが、途中でカエルを刺してしまう。なぜだ? これで二人とも死ぬのにとカエルが問うと、サソリは答える。これが俺の性だからだ
やがてジョディは不慮の事故で死に、ファーガスは組織から逃亡してロンドンへ渡り、ジョディとの約束を果たすため、彼の恋人ディルを探し出す。ここから映画は、政治サスペンスから、不思議なフィルム・ノワールへと変貌を遂げていく。
ジェイ・デイヴィッドソンという奇跡の発掘
ロンドンのバー「メトロ」の赤い照明の中、しっとりと「The Crying Game」を歌う美女ディル(ジェイ・デイヴィッドソン)。ファーガスは彼女に惹かれ、彼女もまた彼を受け入れる。
しかし、二人がベッドインしようとした瞬間、秘密が明かされる。ディルの服が脱がれ、カメラが下半身へとパンした時、そこにあったのは女性器ではなく、男性器だった。
公開当時、このシーンはトランスジェンダー嫌悪だという批判もあったが、ジョーダン監督の意図は、生理的な拒絶反応を描くことではない。ファーガスが抱いたのは、自分が同性愛的な欲望を持っていたことへのパニックだ。
この難役ディルを演じたジェイ・デイヴィッドソンは、当時ファッション業界で働いていた素人だった。キャスティング・ディレクターがパーティで見つけ出し、ジョーダン監督は「彼以外にいない」と即決したという。
女性として振る舞う時のコケティッシュな魅力と、ふと見せる男性的な骨格の強さ。そのアンビバレンツな存在感こそが、この映画の奇妙な味の源泉だ。
もし、この役を本物の女性女優が演じていたら、この映画は単なる『M・バタフライ』の二番煎じになっていただろう。男でも女でもない、ディルという存在が本作の鍵なのである。
やがて二人の関係は、恋愛を超えた共犯関係へとシフトする。ファーガスはディルの髪を切り、男装させ、かつてのジョディそっくりの姿に変える。これは倒錯的な行為に見えるが、これは彼なりの守るための手段であり、同時にジョディへの贖罪でもある。
スティーヴン・レイの、あの常に困ったような、悲しげな垂れ目が素晴らしい。彼は決してマッチョなヒーローではない。状況に流され、悩み、それでも他者を見捨てられない弱くて優しい男を完璧に体現している。
サソリとカエル、そして「赦し」
物語の終盤、かつてのIRAの仲間(ミランダ・リチャードソンら)がロンドンに現れ、ファーガスに要人暗殺を強要する。政治という名のサソリが、平穏な暮らしを求めたカエル(ファーガス)を刺しに来たのだ。
だが、ここで物語は予想外の展開を見せる。暗殺を実行できず、追い詰められたファーガスを救ったのは、か弱いと思われていたディルだった。彼女は、ファーガスを縛り付け、彼が愛していたのが自分ではなくジョディの身代わりだったことを悟りながらも、追ってきたIRAの女テロリストを射殺する。
ディルの怒りは政治的なものではなく、純粋に個人的な、愛憎による復讐だ。ここで政治の暴力と愛の暴力が交錯し、サスペンスとしての緊張感は頂点に達する。
やがてファーガスはディルの罪を被り、刑務所へ入る。ラストシーン、面会室でのガラス越しの会話が素晴らしい。
ディル「なぜ私の罪を被ったの?」
ファーガス「それが俺の性だからさ」
ここで再び語られる「サソリとカエル」の寓話。だが、その意味は冒頭とは反転している。冒頭では「逃れられない破滅の運命」として語られたが、ここでは「損得勘定抜きで相手を愛してしまう人間の業」として語られているのだ。ファーガスはサソリ(テロリスト)であることを辞め、カエル(愛する者のために背中を貸す存在)になることを選んだ。
ニール・ジョーダンは、この映画を通じてアイデンティティの流動性を描いている。国籍(アイルランド/イギリス)、性別(男/女)、立場(テロリスト/市民)。それら全ての境界線は、愛や友情の前では簡単に溶けてしまう。
アメリカでの配給を担当したミラマックスのハーヴェイ・ワインスタインは、「秘密を誰にも話さないでください」というキャンペーンを展開し、この地味な英国映画を世界的な大ヒットへと導いた。
だが、ネタバレを知った上で観ても、この映画の価値はいささかも揺るがない。なぜなら、『クライング・ゲーム』が描いているのは、秘密の暴露による驚きではなく、秘密を知ってしまった後に、人間がどうやって他者を赦し、そして愛し直すかという、魂のプロセスそのものだからだ。
ボーイ・ジョージが歌う主題歌の歌詞が、エンドロールで染み渡る。「いつか愛することの意味を知るだろう。今は泣くゲーム(Crying Game)をしているだけ」。
愛とは、互いの秘密と傷を舐め合いながら、共に泣くことなのかもしれない。
- 監督/ニール・ジョーダン
- 脚本/ニール・ジョーダン
- 製作/スティーヴン・ウーリー
- 製作総指揮/ニック・パウエル
- 撮影/イアン・ウィルソン
- 音楽/アン・ダッドリー
- 編集/カント・パン
- 美術/ジム・クレイ
- 衣装/サンディ・パウエル
- クライング・ゲーム(1992年/イギリス)
