HOME > MOVIE> クライング・ゲーム/ニール・ジョーダン

クライング・ゲーム/ニール・ジョーダン

『クライング・ゲーム』──男が女を愛する時、何が崩れるのか?

『クライング・ゲーム』(原題:The Crying Game/1992年)は、北アイルランド紛争を背景に、IRA兵ファーガスと英国兵ジョディの関係、そしてロンドンで出会うディルとの愛を描いた物語。政治と暴力の中で芽生える共感が、やがて性とアイデンティティの境界を越える寓話へと変化する。赦しと変容のドラマが静かに展開される。

開幕のラヴソングが仕掛けるミスリード

冒頭から、パーシー・スレッジの歌う『When a Man Loves a Woman(男が女を愛する時)』が響き渡り、英国軍兵士ジョディ(フォレスト・ウィテカー)が、ブロンド美女と遊園地でイチャつくシーンで幕を開ける『クライング・ゲーム』。

だがこのラヴ・ソングは、観客を男女のラヴ・アフェアー映画にミスリードさせる周到なワナ。いやホント、ボーっとしていて申し訳なし。

本編のファム・ファタールであるディル(ジェイ・デイヴィッドソン)が、夜のバーでしっとりと『クライング・ゲーム』を歌っている時に、僕は“彼女”が“彼”であることに気づくべきだった。何せこの曲は、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージのヒット・ナンバーなのだから!

推理小説には、「奇妙な味」と呼ばれる変格ミステリの一種があるが、『クライング・ゲーム』もまたジャンルレスな魅力を放つ奇妙な映画である。

『クライング・ゲーム』(1992年)は、北アイルランドの紛争を背景に、身分も性別も流動化する男たちの関係性を描いた物語。IRA兵ファーガスと英国兵ジョディの囚われの友情、ロンドンで出会うディルという存在、そしてラストの刑務所面会が暗示する“赦しと変容”をめぐる寓話的構造を通じて、監督ニール・ジョーダンは視線・性・他者の関係を静かに問いかける。

制作背景と公開時の文脈

『クライング・ゲーム』の脚本は、1980年代半ばに「The Soldier’s Wife(兵士の妻)」というタイトルで書かれていた。しかし当時、その内容は政治的すぎ、性的にも挑発的で、どのスタジオからも資金が下りなかった。

ジョーダンは後年、「資金が集まらないなら監督業をやめて小説家に戻るつもりだった」と語っている。資金は断片的にしか集まらず、俳優やスタッフは低予算の中で撮影を続けた。衣装デザイナーのサンディ・パウエルは、ディルの衣装の多くを自分の私物から流用したという。

キャスティングもまた賭けだった。製作側からは「女性俳優に演じさせるべきだ」と繰り返し要請されたが、ジョーダンはそれを拒み、リアルな両性具有的存在を探し続けた。その結果、ファッション業界で働いていたジェイ・デイヴィッドソンが抜擢される。

彼は演技経験がほとんどなかったが、画面テストの瞬間にスタッフ全員を沈黙させたと言われる。ジョーダンは「もし彼が“完全に女性”として成立しなかったら、ファーガスのキャラクターはただの愚か者になってしまう」と述懐している。

撮影はアイルランド(レイウンタウンなど)とロンドン東部(ホクストン、スピタルフィールズ)で行われた。遊園地や建設現場、クラブといったロケーションは、のちの主題――垂直性、逃避、再生――を象徴する空間として機能している。

公開当初、英国とアイルランドでは評価も興行も低調だった。しかしアメリカで配給を手がけたミラマックスが「結末を誰にも話すな」という宣伝キャンペーンを展開し、口コミが爆発的に広がる。

結果、全米で大ヒットを記録し、世界興行収入は7,000万ドルを超える。英国映画としては異例の成功であり、アカデミー賞作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞など主要部門にノミネートされた。

IRAと囚われの友情──暴力の中に芽生える共感

物語の前半は、北アイルランド紛争を背景にしたIRAの活動が描かれる。IRA兵ファーガス(スティーヴン・レイ)は誘拐した英国兵ジョディを監視するうちに、敵であるはずの男に共感を抱くようになる。二人の間には、戦争のイデオロギーを超えた奇妙な友情が芽生える。

ジョーダンはこの関係を「共感の暴力」として描いている。相手を理解することは、自らの立場を崩壊させる行為でもあるのだ。ジョディの死後、ファーガスはロンドンへ逃れ、偽名“ジミー”を使い、別の人生を始める。政治の現場から性愛の迷宮へ。国家と個人、暴力と赦し、制度と愛――その境界を往還する物語がここから始まる。

ジョーダンはこの導入を、アイルランド作家フランク・オコナーの短編「Guests of the Nation」から着想したと語っている。IRAの兵士が敵の捕虜と交流し、殺すことを強いられるという物語だ。つまり『クライング・ゲーム』は、単なる政治スリラーではなく、人間の「同一性」を失う瞬間を描く宗教的寓話でもある。

ディルの登場によって、映画は新たな段階に入る。彼女(そして彼)は、性別という制度を滑らかに越境する存在である。観客のまなざしを揺さぶるのは、彼/彼女の秘密そのものではなく、「美」という概念がどれほど脆いかという事実だ。赤い照明に包まれ、バーで『The Crying Game』を歌うディルの姿は、現実を超えた神話的光景に変わる。

ジョーダンは後年、「この映画はいま振り返れば、性的アイデンティティの議論のど真ん中に“うっかり入り込んだ”作品だった」と語っている。ファーガスが真実を知った瞬間に動揺し嘔吐するシーンは、当時“トランス嫌悪的だ”と批判されたが、ジョーダンは「拒絶から受容にいたる過程そのものを描くことが目的だった」と明言した。つまりディルは、観客の倫理観を試す装置でもある。

そしてロンドンで土木作業員として働くファーガスの姿には、ジョーダンの私的記憶が反映されている。彼はアイルランドの宗教的で抑圧的な空気の中で育ち、父親が倒れた河口の風景を「子供時代の終わりの象徴」として記憶していたという。冒頭の遊園地シーンはその記憶をなぞっている。

高層ビルの鉄骨を見上げる構図は、地上の暴力から垂直的に逃れようとする人間の本能を象徴する。しかし、どれだけ上昇しても天には届かない。夜のバーの青と赤のネオン、雨に濡れた路地、鏡に映るもう一人の自分――これらのイメージが織りなすのは、現実と幻影の境界を漂う視覚の詩である。

ジョーダンのカメラは物語を説明しない。光と構図そのもので、登場人物の内面を語る。

性別なきロマンス──第三の関係性の誕生

『クライング・ゲーム』が描くのは、男女の愛でも男同士の友情でもない、第三の関係性である。ファーガスとディルは互いの性を超え、赦しと依存の狭間で結ばれる。二人の絆はジョディという死者を媒介にした“記憶の継承”であり、愛というよりは魂の連鎖に近い。

ファーガスが罪を背負うようにしてディルを守る行為は、倫理ではなく宿命に従うものである。ここに繰り返される「サソリとカエル」の寓話――自分を滅ぼすと知りながら他者を刺してしまう性(さが)――が、映画の詩的な核心を締めくくる。

この「第三の関係性」は、作品がアメリカで事件的に受け止められた理由でもある。ミラマックスの「秘密にしておけ」キャンペーンが功を奏し、観客の興味は“その正体を知りたい”という衝動に変わった。ローカルな政治劇が、グローバルなジェンダー寓話として読み替えられた瞬間だった。

そしてスティーヴン・レイの茫洋とした演技は、映画に人間的温度をもたらす。ジェイ・デイヴィッドソンの両性具有的な美は、ハリウッドの均質な美の価値観を拒む。

衣装デザイナーのサンディ・パウエルは「現場は極限状態だったが、全員が“これは危険だが特別なものを撮っている”と感じていた」と語る。スタッフ全員がギリギリのところで、映画の倫理と美学を支えていた。

ジョーダンの筆致は冷徹だが、底にはロマンが流れている。男と女、現実と幻想、暴力と赦し――そのすべてを曖昧に溶かしながら、映画は“感情”ではなく“感覚”で愛を描く。だからこそこの作品は、英国映画が持つ異端の懐の深さを体現している。

寓話の余韻──赦しと変容の神話

ラスト、刑務所の面会室で鉄格子越しに再会する二人。言葉は少なく、沈黙の中にすべてが語られる。ファーガスの微笑は、罪の告白であり、赦しの祈りでもある。

ここで再び語られる「サソリとカエル」の寓話は、人は自分の本性から逃れられないという諦念と、それでも他者を抱きしめることを愛と呼ぶという、相反する真理を同時に孕んでいる。

ジョーダンは当初、ホワイト・クリスマスの雪景色で再会する代替エンディングも用意していたが、採用しなかった。彼が選んだのは、愛が成就するのではなく、保留されるというラストである。

映画は観客に「彼らは結ばれたのか?」ではなく、「この関係を何と呼ぶのか?」を問いかける。愛か、贖罪か、共犯か、依存か。答えは一語に定義できない。それこそがニール・ジョーダンの寛容の哲学であり、彼が信じた“理解ではなく受容”の倫理である。

赦しは救済ではない。赦しとは、理解しきれない他者の本性ごと抱きしめてしまう危険な選択のことなのだ。そしてこの静かな寛容こそ、現代における最も美しい反逆である。

DATA
  • 原題/The Crying Game
  • 製作年/1991年
  • 製作国/イギリス
  • 上映時間/112分
STAFF
  • 監督/ニール・ジョーダン
  • 製作/スティーヴン・ウーリー
  • 製作総指揮/ニック・パウエル
  • 脚本/ニール・ジョーダン
  • 撮影/イアン・ウィルソン
  • 音楽/アン・ダッドリー
CAST
  • スティーヴン・レイ
  • ミランダ・リチャードソン
  • フォレスト・ウィッテカー
  • エイドリアン・ダンバー
  • ジェイ・デヴィッドソン
  • ブレッフィニ・マッケンナ
  • ジム・ブロードベント