『暗殺の森』(1970)
映画考察・解説・レビュー
『ディア・ハンター』(原題:The Deer Hunter/1978年)は、第51回アカデミー賞で作品賞・監督賞を含む5部門を独占した、マイケル・チミノ監督の代表作。ペンシルベニア州の製鋼所で働く若者たちがベトナム戦争へと赴き、捕虜収容所での過酷なロシアン・ルーレットを経て、人生を狂わされていく姿を描く。ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケンら名優たちのアンサンブル、そしてヴィルモス・ジグモンドによる荘厳な撮影が、人間の尊厳と戦争の虚しさを鮮烈に映し出す。
マイケル・チミノが蘇らせた、聖と俗の狂想曲
正直に白状しよう。僕はこの映画をむかーし観たことがあるというだけで、なんとなく分かったような顔をしていた。記憶なんてものは都合よく薄れるもので、内容はすっかり忘却の彼方。
角川シネマ有楽町で『ディア・ハンター[4Kデジタル修復版]』を鑑賞して、その甘い認識は木っ端微塵に粉砕される。スクリーンでその映像を浴びた瞬間、座席に縫い付けられるような衝撃を受けた。
マイケル・チミノという男は、この映画でアメリカという巨大な夢を葬ってみせる。彼がフィルムに焼き付けたのは、「失楽園」の物語だ。
無垢なコミュニティ、雄大な自然、そして信じるに足る伝統的な価値観。これら“聖なるもの”が、歴史の暴力や政治的な不条理、あるいは人間自身の業といった“俗なるもの”によって、無残にも、しかしながら徹底的に美しく、蹂躙されていく。
『天国の門』(1980年)での移民虐殺しかり、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985年)でのチャイナタウン崩壊しかり。その壮大な「葬送」の第一楽章にして、映画史に刻まれた最も美しく、かつ最も残酷な墓碑銘こそが、『ディア・ハンター』(1978年)だ。
何より、狂気的とも言える構成と、時間感覚が凄まじい。3時間余りの上映時間のうちなんと冒頭の約1時間が、ペンシルベニア州の製鉄の町クレアトンで行われる、結婚式&披露宴に費やされるのだ!
現代のタイパ重視な脚本術からすれば、これは明らかに異常かつ過剰。だがこれは、二度と戻らない“聖なる時間”の体験そのものだからして、欠くことのできないものだった。
撮影監督ヴィルモス・ジグモンドが切り取った、煤煙に覆われた寒々しい町並みと、ロシア正教会の黄金色の輝き(リマスターされた映像では、その粒状感と色彩の対比が恐ろしいほど鮮明だった)。
ジョン・サヴェージ演じるスティーヴンの結婚式に集う人々は、歌い、踊り、酒を酌み交わす。そこには、労働者階級の汗臭い連帯と、古き良きコミュニティの体温がムンムンと充満している。エキストラに本物の現地住民を使い、本物の酒を飲ませたという逸話は伊達じゃない。
我々観客はこの、長ーーーーーーーーーーーーーーーーーーいシークエンスを通じて、彼らの友情の濃度を理屈ではなく、肌感覚として共有することを“強制”される。
なぜなら、後に訪れる地獄の悲惨さを骨の髄まで味わうためには、この失われる前の楽園がいかに輝かしく、そして儚いものであったかを、細胞レベルで理解しておく必要があるから。
我々もまた、結婚式の参列者の一人にさせられていたのだ。
映画史上最大の嘘が生んだ真実のロシアン・ルーレット
この「聖なる儀式」の頂点にあるのが、ロバート・デ・ニーロ演じる主人公マイクの、ワン・ショット(一撃必殺)の哲学。
仲間たちと向かった鹿狩りで、彼は「鹿は一発で仕留めなければならない」と説く。これは単なる狩猟のルールじゃない。自らの技術と精神を統御し、カオスである自然界に秩序をもたらすことができるという、アメリカ建国以来のフロンティア・スピリットの現れであり、彼自身の倫理的支柱(聖)だ。
「俺はコントロールできる」という全能感、それこそがマイクのアイデンティティだったはずだ。しかし、舞台がベトナムへと移った瞬間、その秩序は音を立てて崩壊する。ここでチミノが用意したのが、あの「ロシアン・ルーレット」のシーンだ。
公開当時から現在に至るまで、このシーンは袋叩きにあってきた。「ベトコンが捕虜にロシアン・ルーレットを強制した歴史的事実はない!」という批判。
エドワード・サイード的な視点、つまりオリエンタリズムの文脈で言えば、これはアジア人を「理由なき残虐性を楽しむ野蛮な他者」として描く差別的表現であり、アメリカを被害者の立場に置くための歴史修正主義だという指摘は、倫理的にはまったくもって正しい。
だが、映画の演出論、あるいは聖と俗というテーマの文脈において、このロシアン・ルーレットほど、戦争の本質を鋭く抉り出したメタファーが他に存在するだろうか
ロシアン・ルーレットは、技術も意志も通用しない、純粋な運と不条理のゲームだ。マイクが信奉していたワン・ショットの哲学は、ここでは偶然に発射される一発という死の籤引きへと、最悪の形で反転させられる。
コントロール可能な聖なる儀式(鹿狩り)が、コントロール不能な俗なる狂気(ロシアン・ルーレット)へと変貌する絶望。クリストファー・ウォーケン演じるニックが、その狂気の深淵に飲み込まれ、自我を喪失していく様は、ベトナム戦争がアメリカ人の精神に与えた論理的な死そのものではないか。
この映画の画面から漂う鬼気迫る緊張感には、裏話がある。主要キャストの一人、ジョン・カザール(スタンリー役)は撮影時、末期の肺癌に侵されていた。
保険会社からの降板要求をデ・ニーロが私財を投じて阻止し、当時の婚約者メリル・ストリープが彼に付き添い続けたというドラマチックすぎる逸話。画面に映るカザールの儚げな姿と、彼を見つめる仲間たちの眼差しには、演技を超えた本物の「喪失への予感」が漂っている。
彼らの友情がリアルに見えるのは、実際に彼らが友の死という現実に直面していたからに他ならない。フィクションの中に本物の死の気配が混入しているからこそ、この映画は数十年経った今もなお、我々の心臓を鷲掴みにして離さないのだ。
絶望の淵で歌われる「ゴッド・ブレス・アメリカ」の多義性
戦争から帰還したマイクは、再び鹿狩りへと向かう。かつての聖なる儀式を取り戻そうとするかのように。しかし、彼はもう鹿を撃つことができない。スコープ越しに鹿と目が合った瞬間、彼は引き金を引く力を失う。「ワン・ショット」の魔力は消え失せたのだ。
それは、彼が優しくなったからか?違う。彼の中で死の意味が決定的に変わってしまったからだ。かつてはスポーツとして、あるいは技術として消費できた死が、今や友を奪った巨大な不条理として彼の内面を侵食している。
山々の崇高な美しさは変わらないが、それを見るマイクの眼差しは、決定的に汚されてしまった。この対比の残酷さこそが、チミノの真骨頂である。
そして物語は、あまりにも静かで、あまりにも議論を呼ぶラストシーンへと収束する。ニックの葬儀を終えた仲間たちが、なじみの店に集まり、料理を作る。言葉少なに食事をする彼らの中から、ふと誰かが『ゴッド・ブレス・アメリカ』を口ずさみ始める。
最初はたどたどしく、やがて全員による合唱へと変わるこのシーン。公開当時、右派からは「愛国心の復活だ!」と称賛され、左派からは「無反省なナショナリズムだ!」と罵倒された。
だが、あの場面で描かれていたのは、本当に高揚感か?愛国心か?いや、断じて違う。そこにあるのは、痛切な諦念と、祈りにも似た“すがり”だ。
彼らは国家を称揚しているのではない。崩壊してしまったコミュニティ、失われた友人、そして傷ついた自分たち自身をなんとか繋ぎ止めるために、誰もが知っている歌(=儀式)にすがるしかなかったのだ。
言葉を失った彼らに残されたのは、皮肉にも、自分たちを地獄へ送った国家の歌しかなかったという絶望的なパラドックス。それは、もはや信じられなくなったアメリカという聖なる神話への、精一杯の別れの歌のようにも響くではないか。
マイケル・チミノは、その完璧主義ゆえにハリウッドから追放され、孤高のキャリアを歩んだ。しかし、彼が提示したヴィジョン――個人の尊厳(聖)がいかにして巨大な暴力(俗)に押し潰されるか、そしてそれでも人間はいかにして生き続けるのか――は、分断と紛争が絶えない現代において、より一層の切実さを持って我々に迫ってくる。
本作は、決して正しい歴史映画ではないかもしれない。しかし、人間の魂が壊れる音をこれほどまでに鮮烈に、そして美しく映像化した作品は、映画史において稀有であることは間違いない。
- 原題/The Deer Hunter
- 製作年/1978年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/184分
- ジャンル/ドラマ、戦争
- 監督/マイケル・チミノ
- 脚本/デリック・ウォッシュバーン
- 製作/バリー・スパイキングス、マイケル・ディーリー、マイケル・チミノ、ジョン・ペヴァロール
- 撮影/ヴィルモス・ジグモンド
- 音楽/スタンリー・マイヤーズ
- 編集/ピーター・ツィンナー
- 美術/ロン・ホブス、キム・スワドス
- ロバート・デ・ニーロ
- クリストファー・ウォーケン
- ジョン・サヴェージ
- メリル・ストリープ
- ジョン・カザール
- ジョージ・ズンザ
- チャック・アスペグレン
- シャーリー・ストーラー
- ルターニャ・アルダ
- ディア・ハンター(1978年/アメリカ)
- イヤー・オブ・ザ・ドラゴン(1985年/アメリカ)
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