2018/1/29

『ローレライ』(2005)なぜオタクの潜水艦映画は戦争の熱を失ったのか?

『ローレライ』(2005)
映画考察・解説・レビュー

5 OKAY

『ローレライ』(2005年)は、第二次世界大戦末期を舞台に、極秘兵器“ローレライ・システム”を搭載した潜水艦の運命を描く戦争SF映画。 日本の敗戦間際、若き乗組員たちは祖国の未来を懸けて海底を進むが、彼らを待ち受けるのは人間の理性と狂気、そして“第三の原爆”計画だった。

潜水艦の中のアニメーション──「現実なき戦争」の風景

「オタクの、オタクによる、オタクのための潜水艦映画」と評される『ローレライ』(2005年)は、まさに2000年代日本映画における特異点だった。

監督・樋口真嗣、コスチュームデザイン・出渕裕、コンテ協力・庵野秀明、さらに押井守までもが参加するというスタッフ構成が示すのは、ひとつの“映像的共同幻想”の顕現である。

戦後日本のアニメーション文化が、実写という器において再構築された瞬間。スクリーン上に浮かび上がるのは、もはや潜水艦ではなく、アニメーション的想像力そのものだった。

ピエール瀧が砲弾を発射するそのカット割りは『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲そのものであり、香椎由宇の包帯のようなコスチュームは『エヴァンゲリオン』の綾波レイの亜種にほかならない。

そこには戦争の写実も軍事の現実も存在しない。ただ“記号としての戦争”が反復される。その意味で『ローレライ』は「戦争映画」を装ったアニメーション的儀式だった。

綾波レイ、ガンダムの残響

香椎由宇が演じるヒロイン・パウラは、戦場における霊媒のような存在だ。彼女はラバーを巻き付けた身体で潜水艦に乗り込み、精神感応によって敵の動きを察知する。

彼女が気絶するたびに、物語の重力は歪み、現実は神経的なノイズに満たされていく。精神と肉体、兵器と少女、科学とオカルト。その境界線が融解していくさまは、まさに“綾波レイの亡霊”がこの映画に宿っていることを示す。

庵野秀明がコンテ協力として参加しているのも偶然ではない。『エヴァンゲリオン』が提示した「ヒロインの自壊=人類の覚醒」という構造を、樋口真嗣は潜水艦という閉鎖空間に移植したのだ。

だがその模倣はどこか異様に硬質で、血の通わないフィギュア的質感を帯びている。香椎由宇の肉体はあくまで象徴であり、物語のための“記号”としてのみ機能する。彼女が泣き、苦しみ、気絶するたびに、観客は「感情」ではなく「構造」を見る。

この作品の背後には、明確に『機動戦士ガンダム』の系譜が流れている。原作者・福井晴敏自身がガンダムのノベライズ『ターンエーガンダム』を手がけた熱狂的ファンであり、富野由悠季がカメオ出演している事実がそれを物語る。

だがより本質的なのは、『ローレライ』が“ニュータイプ神話”を再演していることだ。堤真一演じる浅倉大佐は、シャア・アズナブルの変奏として描かれる。

彼は日本を破壊し、第三の原爆によって“選ばれし民族”を生み出そうとする。つまり戦争を人類進化の触媒とみなし、破壊による浄化を信じているのだ。

その対立項として、役所広司演じる絹見艦長が存在する。彼は人命を尊重し、理念よりも現実を選び取るアムロ的存在として配置されている。この構図はそのまま『逆襲のシャア』の最終対決を反映したものだろう。

「地球上に残った人類などは地上のノミだ」というシャアの言葉が、浅倉の台詞に反響しているかのようだ。福井が描こうとしたのは、戦後の倫理を越えてなお繰り返される“選民思想の亡霊”であり、オタク的神話の暴走形態だった。

戦争なき戦争──シミュレーションとしての終末

『ローレライ』には、火薬の匂いも硝煙の湿度も存在しない。あるのは、戦争の“再現”であって、戦争そのものではない。つまりこの映画は、戦場を体験した世代の映画ではなく、戦争を「知識」として継承した世代による模倣的シネマなのだ。

だからこそ、すべての戦闘はシミュレーション的で、議論は机上の空論に終わる。艦長と大佐の対立は、実際の血肉を持たず、思想実験のレベルにとどまる。これは『ガンダム』を通じて戦争を“疑似体験”した世代の宿命といえる。

つまり『ローレライ』は、アニメ的戦争観が実写映画に転写された最初の世代的到達点であり、同時にその限界の露呈でもある。戦争が「描かれるもの」から「引用されるもの」に変わった時、映画は生々しさを失い、記号の反復装置と化してしまう。そこに流れる冷気こそ、本作の最大の違和感であり、同時に最大の魅力でもある。

結局のところ、『ローレライ』には“熱”がない。70年代の日本映画が持っていた、社会を焼き尽くすような情念や怒りはどこにも見当たらない。

そこにあるのは、構造としての戦争、思想としての犠牲、そしてデザインとしての破壊。樋口真嗣の映像は洗練され、福井晴敏の脚本は整然としている。

だがそれはあくまで“よくできた模型”としての完成度であり、生々しい人間の声は聞こえてこない。血と汗と泥にまみれた戦争映画ではなく、清潔なガラスケースの中で動くプラモデルのような映画。それが『ローレライ』の宿命だったのだ。

70年代映画の異常なまでの生命力──『日本沈没』や『野獣死すべし』が持っていた、時代の狂気そのもの──は、ここには継承されなかった。『ローレライ』は、アニメ文化の成熟と引き換えに、日本映画が失った“熱”の墓碑銘として存在している。

FILMOGRAPHY