『Delight Slight Light KISS』
アルバム考察・解説・レビュー
『Delight Slight Light KISS』(1988年)は、J-POPの女王・松任谷由実による通算20枚目のオリジナル・アルバム。パートナーである松任谷正隆が当時最高峰のデジタル機材・シンクラヴィアを駆使し、都会の喧騒と孤独を洗練されたサウンドで描き出した金字塔的作品。日本音楽史上初のアルバム出荷枚数100万枚を記録し、バブル景気へと向かう時代の高揚感と刹那的な「純愛」を象徴する、80年代日本のポップカルチャーを語る上で欠かせない作品である。
1988年、僕とシオヤくんと3Dホログラム
松任谷由実の通算20枚目のアルバム『Delight Slight Light KISS』(1988年)は、僕が人生で初めて自腹を切って買ったユーミンのCDである。
当時高校生だった僕は、この3Dホログラムのジャケット(初回限定盤はそのような仕様だった)を手に取った瞬間、震えが止まらなかった。見る角度によってユーミンの表情が変化し、タイトルが浮き上がる。それは単なるプラスチックの円盤ではなく、バブル絶頂へ向かう時代のパスポートのように思えたのだ。
僕をユーミン沼に引きずり込んだのは、高校の友人・シオヤくんだ。趣味でキーボードを弾いていた彼は、昼休みになるたびに「いいか、ユーミンの凄さはメロディだけじゃない。松任谷正隆のアレンジが革命的なんだ!」と熱っぽく語っていた。
彼はシンクラヴィアという当時の超高級デジタル機材が、いかにこのアルバムの音像を支配しているかを、鍵盤奏者ならではの視点で解き明かしてくれた。彼の情熱に感化され、僕も狂ったようにユーミンを聴き始めたわけだが、今にして思えばシオヤくんの指摘はあまりに正しかった。
本作で完成されたデジタルとアナログの融合。その音像は、煌びやかでありながらどこか無機質で、まさにコンクリートとネオンで構成されたTOKYOそのものを鳴らしている。
このアルバムには、汗や土の匂いは微塵もない。あるのは、ハイヒールのコツコツという音と、高層ビルの窓に反射する光だけ。僕はその人工美に、どうしようもなく憧れていたのだ。
「リフレイン」の呪縛と「ひょうきん族」の土曜夜
本作の最重要曲は、やはりM-8「リフレインが叫んでる」だろう。三菱ミラージュのCMソングとしてお茶の間に流れたこの曲は、イントロの激しいピアノリフ一発で、聴く者の心を鷲掴みにした。
しかし、冷静に歌詞を読み解いていくと、アップテンポでダンサブルなトラックに乗せて歌われるのは、身の毛もよだつほどの情念だ。「どうしてどうして僕たちは 出逢ってしまったのだろう」という絶望的な問いかけ、サビで繰り返される「リフレインが叫んでる」というフレーズ。それは、狂騒的なバブルの宴の裏側で、誰もが密かに抱えていた孤独や虚無感の、悲痛な叫びだった。
そして、僕が本作で最も愛してやまないナンバー、M-3「恋はNo-return」。フジテレビ系伝説のバラエティ『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマとして使用されたこの楽曲こそ、僕にとっての「1988年のリアル」である。
土曜の夜、テレビでタケちゃんマンやアミダばばあを見て大笑いした後、エンディングで流れるこの曲。華やかなショーの終わりを告げるような、少し寂しくて、でも最高にダンサブルなビート。
「No-return」というタイトルが示す通り、この狂乱の時代は二度と戻らないことを、彼女は予見していたのかもしれない。お祭りのような番組の最後に、ユーミンのクールな歌声が響く。あのコントラストこそが、僕たちの青春だったのだ。
「リフレイン」が都市の孤独なら、「恋はNo-return」は都市の祝祭だ。この2曲が同居していることこそが、本作の奇跡なのである。
「純愛」という名の軽やかなる闘争
アルバムタイトルの『Delight Slight Light KISS』は、直訳すれば「喜びの、わずかな、軽いキス」。なんと軽薄で、なんと洒脱なタイトルだろう。
だが、この「Light(軽さ)」こそが、ユーミンが提示した最強の武器であり、重苦しい昭和の歌謡曲的価値観に対するアンチテーゼなのだ。
「Nobody Else」の完璧なAORサウンド、「September Blue Moon」のサンバのリズム。ここには、演歌的な耐え忍ぶ愛や、フォーク的な四畳半の愛は存在しない。
あるのは、自立した個人同士が、都会の摩天楼の隙間で交わす、刹那的だからこそ美しい純愛の形だ。彼女は「重いこと」を「軽いこと」へ、「湿った感情」を「乾いた美学」へと変換してみせた。
当時のインタビューで彼女は「純愛」をテーマに掲げている。それは道徳的な意味での純潔さではない。不倫であれ、略奪であれ、その瞬間に嘘がなければ、それは「純愛」たり得るという、極めて都会的でラジカルな宣言。この価値観の転換こそが、働く女性たちを熱狂させ、彼女を「恋愛の教祖」へと押し上げた最大の要因だろう。
あれから30年以上が経過し、元号は令和になった。しかし、『Delight Slight Light KISS』が放つ輝きは、いささかも曇っていない。むしろ、SNSで誰もが承認欲求と孤独を抱える現代こそ、このアルバムが描いた「都会の孤独と煌めき」は、より切実に響く。
- 1. リフレインが叫んでる
- 2. Nobody Else
- 3. ふってあげる
- 4. 誕生日おめでとう
- 5. Home Townへようこそ
- 6. とこしえにGood Night(夜明けの色)
- 7. 恋はNo-return
- 8. 幸せはあなたへの復讐
- 9. 吹雪の中を
- 10. September Blue Moon
- Delight Slight Light KISS(1988年/東芝EMI)
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