2026/3/2

『311』(2011)徹底解説|4人のジャーナリストが踏み込んだ被災地の真実と葛藤

『311』(1961)
映画考察・解説・レビュー

3 BAD

『311』(2011年)は、森達也をはじめとする日本を代表する4人のドキュメンタリー作家が、2011年の東日本大震災発生からわずか数日後の被災地(福島、宮城、岩手)に入り、その凄惨な現状を記録した衝撃のドキュメンタリー映画。被災者にカメラを向けることの加害性と、メディアのあり方を自らに、そして観客に鋭く問いかける一作。

被災地という名の不謹慎なピクニック

僕がまだいたいけな大学生だった1995年のこと。友人が「上九一色村に行かないか?」と無邪気に誘ってきたことがある。

当時の世の中はオウム真理教事件一色に完全に染まりきっていた。オウムの施設であるサティアンが集中していた上九一色村は、野次馬が集まるちょっとした観光名所と化していたのだ。

地下鉄サリン事件によって、日本の安全神話は音を立てて崩壊した。その恐るべきテロリストの中枢へとピクニック気分で出かけ、非日常の空気を存分に吸い込むという行為。僕はそこに何とも言えない気味の悪さを感じて、その申し出をきっぱりと辞退したのである。

それから16年後の2011年。映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の4人が、ノープランで東日本大震災の被災地へと赴いた。

その顛末を映像に収めたドキュメンタリー映画『311』(2011年)の全編を覆っているのは、まさにあの時と同じ匂い。非現実の世界に我が身を浸して興奮する、不謹慎極まりないピクニック気分である。

東北自動車道を北上する車中、彼らはガイガーカウンターのスイッチを入れる。東京の10倍にも跳ね上がった放射線測定値を目の当たりにし、「やばいよ、やばいよ」とまるで出川哲朗ばりのリアクションを乱発するのだ。

キャッキャと騒ぐオッサン4人の姿から滲み出ているのは、放射能への恐怖などではない。非日常空間へと突入していく隠しきれない高揚感である。

防護服とゴーグルという異様な出で立ちに身を包み、ドキュメンタリーとしての「決定的な何か」を求めて被災地をさすらうオッサン四人衆。その姿は正直言って滑稽の極みだ。

ジャーナリストの血が騒ぎ、被災者に対して無神経なアポなしインタビューを敢行するだけならまだしも、瓦礫の中から見つかった遺体にまで遠慮なくカメラを向ける。その行為は滑稽を通り越して明らかに不謹慎であり、倫理的な一線を完全に踏み越えている。

だがしかし、モラルを軽々と飛び越えたこのショッキングで悪趣味な映像こそが、安全な場所にいる我々観客が心の底で密かに観たがっている「決定的な何か」そのものなのである。

森達也が仕掛けたマスコミ論の限界

映画の公式パンフレットで、映画評論家の三留まゆみは「あなたは今、この映画を観て戸惑っているかもしれない。どうしようもない居心地の悪さを感じてしまうかもしれない」と記している。

だが正直に言わせてもらおう。僕は戸惑いも居心地の悪さも全く感じなかった。なぜか。それは彼らが露悪的に描き出そうとしているであろうアンチモラルの姿勢に、作品としての強固な一貫性がサッパリ感じられなかったからである。

森達也はインタビューでこう語っている。「カメラを廻すことは後ろめたいですよ。でもそこを紛らわせば、頑張ろう日本とか、そっちに行っちゃう。否定はしないが、一色になりすぎる」。

この言葉に本作の核心がある。つまり彼が目指したかったのは、不謹慎を承知で「見せ物としての3.11」をスクリーンに叩きつけることなのだ。

日本中を包み込んでいた「善意」という名の息苦しい包囲網。自主規制と自己検閲の連鎖に対する、極めてささやかで意地悪な異議申し立てである。

震災直後のメディアがいかにして感情をコントロールしようとしたか。森達也的なシニカルなマスコミ論の実践として、このアプローチ自体は非常にスリリングで野心的だ。

被災地にズカズカと踏み込む嫌な奴らとして自らをピエロ化し、観客の倫理観を逆撫でする。見事な偽悪のポーズである。

4人の主観が引き起こした致命的な衝突

しかしながら、映画『311』は決定的な構造的欠陥を抱えている。4人の映像ジャーナリストが、共同監督としてクレジットされている事実だ。

それぞれが全く異なるマスコミ論とドキュメンタリー論を持ち寄った結果、作品内部で小さくないコンフリクトを巻き起こしてしまっている。森達也自身が「そもそもドキュメンタリーで、4人の共同監督作品なんてありえない」と自嘲気味に語っている通りだ。

その最悪の弊害が、映画の終盤に挿入される被災した中学校の卒業式のシークエンス。ここで映画は突然、不要極まりないセンチメンタリズムを発動。それまで築き上げてきた露悪的で不謹慎なスタンスが、このお涙頂戴の感動シーンによって台無しになってしまうのだ。

森達也が企図したはずのシニカルなマスコミ論が、他の監督の「被災者に寄り添う」という真っ当なジャーナリズムと激突し、完全に中和されてしまったのである。

ノープランの被災地旅行で始まったこの映画は、倫理の底が抜けた醜悪なドキュメンタリーとして、メーターの針を限界まで振り切るべきだった。だが結局のところ、全員の意見を丸く収めた凡庸な記録映画にしかならなかった。

ドキュメンタリーとは、どこまで行っても撮影者の強烈なエゴと主観が投影される、極めて個人的なメディアである。4人の映像ジャーナリストの複雑に交錯した想いは、最後まで一つの強靭な糸に収斂されることはなかった。

見せ物としての不謹慎を貫き通せなかった中途半端な姿勢。それこそが、本作最大の敗因である。

DATA
STAFF
CAST
FILMOGRAPHY
  • 311(2011年/日本)