【ネタバレ】『狼たちの午後』(1975)
映画考察・解説・レビュー
『狼たちの午後』(原題:Dog Day Afternoon/1975年)は、巨匠シドニー・ルメット監督が実在の事件を映画化した犯罪ドラマ。1972年の猛暑が続くニューヨーク、愛するレオンの手術費用を得るために銀行を襲撃したソニーが、警官隊との絶望的な篭城戦の中でメディアや野次馬の視線を一身に浴び、予期せぬ時代の寵児へと変貌していく様を、ビクター・J・ケンパーのリアリズム溢れる映像とアル・パチーノが体現した剥き出しの孤独、そしてジョン・カザール演じるサルの静かなる狂気と共に描き出す。
叫びをコンテンツ化する捕食者たち
うだるような猛暑、冷房の故障した銀行、そして皮膚にネットリとへばりつく不潔な汗。名匠シドニー・ルメットが放った 『狼たちの午後』(1975年) は、観客の首筋に真夏のブルックリンの熱気を直接叩きつけるような、体感型サスペンスである。
だが、この映画を銀行強盗に失敗した物語と定義するのは、あまりにも早計なり。これは、現代社会が今なおSNSやワイドショーで再生産し続けている 「劇場型犯罪」と「メディアによる生身の肉体の捕食」 を、発生の瞬間から捉えた予言的映画なのである。
ソニー(アル・パチーノ)が銀行の入り口に躍り出て 「アッティカ!アッティカ!」と絶叫する場面を見よ。これは1971年に発生したアッティカ刑務所暴動への連帯を示す、剥き出しの政治的スローガンだ。しかし、劇中でこの叫びが発せられた瞬間、それは悲しくも 「エンターテインメントとしての叫び」 へと変質してしまう。
ルメットはこのシーンの撮影にあたり、エキストラに対して「パチーノが叫んだら、まるでロックスターを歓迎するように歓声を上げろ」と指示したという。
群衆は、ソニーの政治的思想に共鳴しているのではない。彼らは単に、テレビ中継という祭りの熱狂を安全な場所から消費しているだけだ。ルメットは、反体制の切実な叫び声ですら、メディアというフィルターを通せば、大衆の耳に心地よい「一発屋のヒットソング」のごとき商品に成り下がることを暴き出す。
ソニーは革命家になろうとしたが、実際には視聴率を稼ぐための一発屋タレントとして、メディアという捕食者の餌皿に生きたまま盛り付けられたのである。
興味深いのは、恋人レオン(クリス・サランドン)の性転換手術の費用を稼ぐためという犯行の動機だ。1970年代半ばのアメリカにおいて、このテーマを物語のド真ん中に据えた先見性には驚嘆するが、そこにはさらに根深い構造が横たわっている。
ソニーが銀行という「資本の神殿」に押し入ったのは、愛する者の肉体を理想の形に書き換えるための、いわば身体の買い戻し儀式といえる。当時、実際の犯人であるジョン・ウォイトウィッツは、この動機を「愛の証明」と語ったが、ルメットと脚本のフランク・ピアソンはそれを「システムへの隷属」として冷徹に再解釈。
肉体という実存を救済するために、自分自身の自由、相棒の命、そして無関係な人質たちの平穏な時間を抵当に入れ、現金という記号へ換金しようとする。
しかし、この「等価交換」は最初から破綻している。肉体すらも金銭によってパーツのごとく加工・交換可能な「対象」と化したポスト・モダン世界において、ソニーは愛のために資本のシステムに挑みながら、そのシステムそのものに魂を削り取られていく。
彼が追い求めた変身のための資金は、結局、自分たちの人生を鮮度の高い映像コンテンツとして売ることでしか得られない。この皮肉な循環の中に、ソニーという男の行き止まり人生が凝縮されているのである。
窓のない地獄と、レンズという解剖刀
ルメットの演出が凄まじいのは、銀行を単なる舞台ではなく、逃げ場のない檻として描き出した点にある。その檻の中では、犯人たちが極限状態の汗と恐怖を垂れ流している。一方で、その姿を外側から冷酷に、まるで解剖するように暴き出すのがテレビのレンズだ。
銀行の内部は、熱気が籠もり、体臭と排泄物、そして死への恐怖が充満している。一方、壁一枚隔てた外の世界は、テレビレンズという解剖刀越しに、安全な場所から消費される映像の記号として冷ややかに眺めている。この「内と外」の決定的な断絶こそが、本作の真の恐怖の震源地なのだ。
ルメットは徹底したドキュメンタリー的リアリズムを追求するため、撮影監督ヴィクター・J・ケンパーと共に、銀行のセットそのものを巨大な実験装置へと変貌させた。
特筆すべきは、セット内の天井や壁に実際の蛍光灯や隠し照明を無数に配置し、360度どの方向を向いても、ライティングの変更なしに即座に撮影可能な環境を作り上げたこと。
この演出意図はスーパー・サディスティックだ。ライティングの微調整による待ち時間という、俳優にとっての唯一の休息を徹底的に奪い去ったからだ!
どこへ動いてもカメラが追い、どこへ逃げても光が暴き出す。この「撮影の檻」に閉じ込められたアル・パチーノやジョン・カザール、そして人質たちは、役としての疲労だけでなく、身体的な生理限界をフィルムに刻み込むことになった。
ルメットがセット内の気温を上げ、パチーノには睡眠時間を削るよう要求したという逸話もあるが(ヒドい)、画面に滲む汗と血走った目は、生物の純粋な反応そのものなのだ。
銀行という密室から出られないソニーたちは、同時にテレビ中継というフレームからも逃れることができない。彼らの絶望も、怒りも、レンズという解剖刀によってリアルタイムで解体され、大衆に消費されていく。テレビの生放送劇出身というキャリアを持つルメットは、映像が実存を飲み込んでいくプロセスの残酷さを、誰よりも熟知していたのだろう。
しかもこの映画では、劇伴音楽が一切流れない。聞こえてくるのは、パトカーの不吉なサイレン、群衆の無責任な怒号、そして閉鎖空間で喘ぐ人間たちの湿った呼吸音だけだ。我々観客は、レンズという解剖刀が肉体を切り裂く音を、静寂の中でダイレクトに聞かされることになる。
ジョン・カザールの沈黙
アル・パチーノの爆発的なエネルギーに対し、ジョン・カザール演じる相棒サルはあまりにも対照的。彼はソニーのような饒舌な物語を持たない。ただそこに、死の影として立っているだけだ。
サルという存在は、この騒々しいメディア・サーカスの中で唯一、物語化や商品化を拒絶する肉体として機能している。彼が飛行機の中で煙草を吸わないのは、この茶番劇の中で唯一、死を真面目に見つめているからだ。
ソニーがメディアという虚構とダンスを踊り、群衆の歓声を浴びている間でさえ、サルだけは銃を握りしめ、自分たちが犯した罪の重さに沈黙している。
その沈黙こそが、パチーノの絶叫という虚構を、現実の悲劇へと繋ぎ止める重石となっている。彼が空港であっけなく射殺される瞬間、この映画から現実が消え、ソニーはただ一人、メディアの虚構の中に置き去りにされる。サルの死は、システムが不要な異物を排除しただけの、無機質な処理に過ぎない。その虚無感が、極めてアメリカン・ニューシネマ的なのだ。
そう!『狼たちの午後』は、人間が資本とメディアのシステムに完膚なきまで搾取され、最後には一滴の尊厳も残さず消費されるプロセスを記録した、極めて現代的なホラー映画なのである。
- 監督/シドニー・ルメット
- 脚本/フランク・ピアソン
- 製作/マーティン・ブレグマン、マーティン・エルファンド
- 制作会社/ワーナー・ブラザース、アーティスツ・エンターテインメント・コンプレックス
- 原作/P・F・クルージ、トーマス・ムーア
- 撮影/ビクター・J・ケンパー
- 編集/デデ・アレン
- 美術/チャールズ・ベイリー
- 衣装/アンナ・ヒル・ジョンストン
- 録音/ジャック・フィッツスティーブンス
- 十二人の怒れる男(1957年/アメリカ)
- セルピコ(1973年/アメリカ)
- オリエント急行殺人事件(1974年/イギリス、アメリカ)
- 狼たちの午後(1975年/アメリカ)
- 評決(1982年/アメリカ)
- その土曜日、7時58分(2007年/アメリカ)
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