『ノルウェイの森』(2010)
映画考察・解説・レビュー
『ノルウェイの森』(2010年)は、累計発行部数1000万部を超える村上春樹の同名ベストセラー小説を、『青いパパイヤの香り』などで知られる名匠トラン・アン・ユン監督が映画化した作品。親友のキズキを自殺で喪った喪失感を抱える大学生ワタナベが、キズキの恋人であった直子と、同じ大学に通う生命力に溢れた緑という対照的な二人の女性の間で揺れ動く、甘く哀しい青春の痛みを美しい映像詩として描き出している。
村上春樹が課した困難すぎるミッション
鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ
これは村上春樹が群像新人文学賞を受賞した鮮烈デビュー作『風の歌を聴け』(1979年)に登場する、あまりにも有名な一節だ。
かつての重苦しい日本近代文学が、決まって「セックスと死」を安直な拠り所にして物語を紡いできたのに対し、若き日の村上春樹はそれを明確に否定し、クールに切り捨てることから自身の創作活動をスタートさせた。
翻訳調の軽快な口語体を駆使し、泥臭い情念から遠く離れることによって、ムラカミ文学は日本文学史において唯一無二のポップなポジションを確立するに至ったのである。
ところが、だ。やがて彼は、かつて忌避したはずのその「セックスと死」を、あえて意図的に物語のド真ん中へとブチ込み、新たな文学的地平を切り拓こうと試みる。それが、1987年に発表された奇妙な恋愛小説『ノルウェイの森』だ。
この作品は国内だけで1000万部を超えるという爆発的ヒットを記録。皮肉なことに、村上春樹の代表作として世界中に認知されてしまった。
冷静にアウトラインだけを語ってしまえば、どこか空虚な主人公ワタナベ(映画版では松山ケンイチ)が手当たり次第に女と寝まくり、その周囲で心を病んだ知人や友人が次々とバタバタ死んでいくという、かなり身も蓋もない話である。しかし、この「セックスと死」しかないという身も蓋もなさこそが、逆説的に純文学としての深度と純度を極限まで高めていた。
さて、長年映画化を拒み続けてきたこの世界的ベストセラーを、映像で語るとなると、いささか厄介なことになる。活字の行間に隠されていた「セックスと死」の生々しさが、生身の俳優の肉体と、リアルな音を従えて血肉化された途端、色情魔たちのハレンチなメロドラマになってしまう危険性を孕んでいるからだ。
この不可能に近いミッションに挑んだのが、『青いパパイヤの香り』(1993年)や『夏至』(2000年)など、繊細かつ叙情的な映像美で世界を魅了してきたベトナム系フランス人の巨匠トラン・アン・ユンである。
村上作品の全てに共通する基本的なストラクチャーは、現実の世界と異界(死の世界)を行き来する物語。本作もまた、死の淵に半歩足を踏み入れている直子と、生命力あふれる緑という、相反する二つの世界の狭間で激しく揺れ動く青年のドラマだ。
だからこそ、映画は生と死の強烈なコントラストを的確に、そして極めて暴力的に描く必要があったはず。しかしながら、トラン・アン・ユンは自らの得意技である美しい映像に酔いしれ、セックスシーンすらも絵画のようにリリカルに撮りすぎてしまった。
結果として、物語が本来持っていた泥臭い対比の構図がボヤけ、ただただ美しいだけの上澄み部分しか掬い取ることができなかったのである。
菊地凛子の情念と水原希子の一本調子
さらに言わせてもらえば、この映画はキャスティングの時点から相当に厄介な問題を抱え込んでいる。物語の生命線である二人のヒロインの描き方が、どうにもこうにも噛み合っていないのだ。
まず、死の影をまとった直子を演じた菊地凛子。彼女の演技にかける情熱は凄まじく、松山ケンイチと楽屋にこもってテクニカルな表現まで徹底的に話し合ったという逸話が残っているほど。
だが、彼女の顔面がスクリーンに大写しになっても、どうにもフォトジェニックな儚さには収まらない。感情が爆発する芝居になると、ただでさえ重い直子のキャラクターに彼女の情念が過剰に乗っかかってしまう。ハッキリ言ってしまえば、クドすぎるのだ。
極めつけは、早朝の広大な草原をカメラがひたすら水平移動で追いかける中、直子がワタナベに向かって自らの性的なトラウマを延々と告白する長回しのシーン。
あの稚拙で単調なカメラワークと、菊地の入り込みすぎた演技が最悪のケミストリーを起こし、映画のトーンが完全に崩壊するほど演劇的になってしまっている(個人の感想です)。
一方で、生と太陽の象徴である緑を演じたのは、本作が演技初挑戦だったモデルの水原希子。トラン・アン・ユンが彼女のフレッシュな存在感に惚れ込み大抜擢したわけだが、当然ながら素人同然の彼女の演技は終始一本調子。
監督から「このセリフを言う時はコップを見て、次はあっちを見て」と手取り足取りの細かい指示を受けて演じたというが、緑というキャラクターが本来抱えている底知れぬ孤独と深い傷という裏のレイヤーを、彼女は全く消化しきれていない。
画面に映る彼女は確かに狂おしいほどにポップで可愛い。可愛いから許してしまいたくもなるが、やはり映画の骨格を支えるには圧倒的に力不足だ。二人のヒロインが、それぞれのベクトルで直子と緑という強烈なアイコンを演じきれず、宙に浮いてしまっているのだ。
おまけに、1960年代の学生運動の空気を表現するためなのか、大学教授役に糸井重里、レコード店の店長役に細野晴臣、阿美寮の門番役に高橋幸宏という、錚々たるサブカル文化人たちをこぞってカメオ出演させている。
当時の時代を彩ったアイコンを配置する狙いは分かるが、彼らがスクリーンに登場した瞬間、物語のシリアスな没入感がプツリと途切れ、「あ、YMOだ!」という内輪ノリのお祭り映画のような強烈な興醒め感を生み出してしまっている。
映像美が証明したムラカミ文学の限界
じゃあ、この映画版『ノルウェイの森』が救いようのない世紀の駄作なのかと言われれば、僕は決してそうは思わない。むしろ、映画を構成する美学の点においては、奇跡的なまでの達成を見せているからだ。その最大の功労者が、台湾の巨匠ホウ・シャオシェン監督作品などで世界的な評価を得ている撮影監督、リー・ピンビンである。
彼が捉えた、鬱蒼と茂る森の緑、雪に覆われた白銀の阿美寮、そして登場人物たちの間を亡霊のように滑っていく浮遊感あふれる流麗なカメラワーク。それはまさに、村上春樹の文章から滲み出る“どこにも辿り着けない喪失感”を、これ以上ないほど完璧に視覚化したものだ。
さらに、レディオヘッドのギタリストであるジョニー・グリーンウッドが手がけた劇伴音楽が、その映像に恐ろしいまでの深みを与えている。オーケストラと不協和音が入り交じる、残酷なまでに静謐でヒリヒリとするサウンドトラック。
ノスタルジーとモダンが横溢する60年代のセットデザインと相まって、原作が持っているあの冷たくて透明な空気感を見事にスクリーンに現出させているのだ。
世界的ベストセラーであり、読者それぞれが強烈な思い入れを持つムラカミ文学を映画化するという、火中の栗を拾うような困難な冒険。その過酷な挑戦において、トラン・アン・ユン監督は美しいイメージの醸成という一点においては、確かに大成功を収めている。これ以上美しい『ノルウェイの森』の風景は、誰にも撮れないだろう。
しかし同時に、村上春樹の文学が持つ言葉の魔法や行間の余白は、どれほど美しい映像と音楽をもってしても、完全に翻訳することは不可能であるということも残酷に証明してしまっている。
実体のある肉体を与えられた瞬間、文学の純度はどうしても濁ってしまう。トラン・アン・ユンの美しすぎる映像は、皮肉なことに「村上春樹を実写映画化することの決定的な限界」を、これ以上ないほど明確に、そして美しくスクリーンに焼き付けてしまったのだ。
- 監督/トラン・アン・ユン
- 脚本/トラン・アン・ユン
- 製作/小川真司
- 製作総指揮/豊島雅郎、亀山千広
- 原作/村上春樹
- 撮影/リー・ビンビン
- 音楽/ジョニー・グリーンウッド
- 編集/マリオ・バティステル
- 美術/イェンケ・リュゲルヌ、安宅紀史
- 録音/浦田和治
- ノルウェイの森(2010年/日本)
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