HOME > MOVIE> 『太陽を盗んだ男』(1979)徹底解説|沢田研二が演じた透明な悪意とラストの意味
2026/2/2

『太陽を盗んだ男』(1979)徹底解説|沢田研二が演じた透明な悪意とラストの意味

『太陽を盗んだ男』(1979)
映画考察・解説・レビュー

9 GREAT

『太陽を盗んだ男』(1979年)は、長谷川和彦監督が理科教師の暴走を描いた異色のサスペンスである。主人公の城戸誠(沢田研二)は原子力施設からプルトニウムを盗み、自作の原子爆弾で政府を脅迫する。刑事・山下(菅原文太)が追跡する中、二人の対立は虚無と狂気が交錯する破滅的な闘争へと変わっていく。

撮影という名の犯罪行為とその代償

映画における「伝説」という言葉は、あまりにも安売りされすぎている。だが長谷川和彦監督の怪作『太陽を盗んだ男』(1979年)において、その言葉は文字通りの意味を持つ。なぜなら、この映画の制作プロセスそのものが、法を犯し、国家権力を挑発するテロルそのものだったからだ。

当時の長谷川和彦は、デビュー作『青春の殺人者』(1976年)でキネマ旬報ベスト・テン1位を獲得し、一躍時代の寵児となっていた。しかし、彼が次に構想したのが、「個人が原爆を作って政府を脅迫する」という、東宝や東映といったメジャー映画会社では絶対に企画が通らないような企画。

青春の殺人者
長谷川和彦

この無謀プロジェクトにGOサインを出したのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったキティ・フィルムの多賀英典プロデューサーだ。多賀は「映画界の常識をぶっ壊す」という長谷川の狂気に共鳴し、当時の金額で数億円という巨額の予算を投じる。

結果として、制作費は膨れ上がり、会社を倒産寸前まで追い込むことになるのだが、その「破滅に向かって疾走する」姿勢こそが、フィルムに焼き付いた異様なテンションの正体といえる。

撮影現場は、まさに戦場だった。特に語り草となっているのが、皇居・坂下門前でのゲリラ撮影。主人公・城戸誠(沢田研二)がバスジャックをして皇居へ突っ込むシーンは、セットでも特撮でもない。本物の皇居前で、警察の許可を一切取らずに強行したのだ。

スタッフは事前に警察の動きを徹底的にリサーチし、警備の隙を突く軍事作戦のようなロケハンを敢行。撮影本番、バスが坂下門へ突進し、パトカーがサイレンを鳴らすと、本物の皇隊警察が大混乱に陥ったという。

この撮影で、当時の助監督であった黒沢清や相米慎二らが、道路交通法違反などで警察に連行されている。だが、長谷川和彦はひるまない。むしろ、スタッフが逮捕されることさえも、伝説の一部として織り込み済みだったのではないか。

さらに、国会議事堂前にプルトニウム容器を置き去りにするシーンでも、沢田研二が老婆に変装して実際に敷地内ギリギリまで侵入している。望遠レンズで隠し撮りされたその映像には、演技を超えた「バレたら終わる」という本物の緊張感が漂っている。

カーチェイスシーンも狂気の沙汰だ。首都高速道路での撮影許可が下りるはずもなく、彼らは一般車に紛れてゲリラ撮影を行った。役者自身がハンドルを握り、法定速度を無視して疾走する映像は、今のコンプラ重視の撮影現場からは想像もつかない“生の暴力”に満ちている。

また、劇中で使用されたマツダ・RX-7(SA22C)は、マツダからの協力が得られず(こんな反社会的すぎる内容だったら当然だろう)、制作費で購入して改造し、ボロボロになるまで使い倒した。

『太陽を盗んだ男』の画面に映るすべての違和感や切迫感は、演出上のテクニックではない。実際に法を犯し、予算を使い果たし、破滅のリスクを背負った人間たちだけが放つことができる、ドキュメンタリーに近い殺気なのだ。

なぜ彼は原爆を作らねばならなかったのか?

1979年という年は、日本の現代史において極めて重要な結節点だ。

60年代から続いた学生運動の熱気は完全に鎮火し、浅間山荘事件(1972年)を経て、政治的な理想主義は「ダサいもの」「危険なもの」として忌避されるようになっていた。

世の中は高度経済成長を終え、消費社会へと移行する過渡期。シラケ世代と呼ばれる若者たちは、世界を変えることなど諦め、個人的な趣味や消費に閉じこもっていた。

そんな時代に現れたのが、主人公・城戸誠である。彼は中学校の理科教師であり、表向きは社会に順応した平凡な市民だ。彼が原爆製造に着手する動機には、革命の志も、貧困による恨みも、宗教的な信念もない。

「退屈だったから」「自分にできそうだったから」、ただそれだけ。だが、この動機の不在こそが、70年代末の日本の空気を最も残酷に切り取っている。

脚本に参加したレナード・シュレイダーは、実弟ポール・シュレイダーと共に『タクシードライバー』(1976年)を手掛けた人物だ。この映画の主人公トラヴィスは、街の汚れを一掃するという歪んだ正義感を持っていたが、城戸誠には正義すらない。

タクシードライバー
マーティン・スコセッシ

彼は、東海村の原子力発電所(劇中ではプルトニウム抽出施設として描かれる)から液体プルトニウムを強奪し、自宅のアパートでたった一人、ハンドメイドで原子爆弾「9番」を製造する。

その工程は、まるでプラモデルを作るかのように淡々としており、BGMには井上堯之バンドによる軽快で都会的なサウンドが流れる。この日常の延長にある核武装という描写こそが、本作の最も恐ろしい発明である。

城戸が政府に突きつける要求もまた、徹底してナンセンスだ。「プロ野球のナイター中継を完全放送しろ(延長しろ)」「ローリング・ストーンズの日本公演を実現させろ」。かつてのテロリストたちが要求した、同志の奪還や政治犯の釈放とは次元が違う。

彼は、国家権力という巨大なシステムを使って、自分のわがままを通そうとする。これは、イデオロギー闘争が消滅し、すべての価値が消費へと回収されていく時代の予言だ。

沢田研二というキャスティングは、この透明な悪意を表現するために不可欠なピース。当時のジュリーは、歌謡界のトップスターでありながら、どこか現実離れした妖艶さと虚無感を漂わせていた。

原爆を抱いて眠るとき、彼は胎児のように無垢な表情を見せる。社会を憎んでいるわけではない。ただ、自分の存在の重さを、世界と釣り合わせるために核という錘を必要としたのだ。彼にとって原爆爆発のカウントダウンは、退屈な日常をドラマチックに変えるための、唯一のイベントだったのかもしれない。

この映画は、政治的な季節が終わった後に残された「個人の行き場のないエネルギー」が、核分裂のように暴走する様を描いた、青春映画の最終形なのだ。

城戸誠は、何者かになりたかったすべての若者の、哀しい成れの果てである。

菅原文太とエヴァンゲリオン

理屈と科学で武装した城戸誠に対抗できるのは、論理を超越した肉体しかいない。その役割を担ったのが、菅原文太演じる山下警部だ。当初、この役には別の俳優も候補に挙がっていたと言われるが、結果として菅原文太が演じたことで、映画は神話的な構造を獲得する。

山下警部は、城戸とは対照的に汗と血の匂いがする男だ。『仁義なき戦い』で彼が体現してきた、昭和の暴力や土着的な情念が、そのまま山下というキャラクターに投影されている。

彼は城戸の荒唐無稽な論理を理解しようとはしない。ただ、野良犬のような嗅覚で犯人を追い詰め、どれだけ殴られようが、撃たれようが、ゾンビのように立ち上がる。

特筆すべきは終盤のアクションシーンだ。ビルから転落しても死なず、血まみれになりながら城戸を追走する姿は、ほとんど『ターミネーター』のアーノルド・シュワルツェネッガー。ここで描かれるのは、善悪の対決などではなく、“新しい虚無(城戸)” vs. “古い肉体(山下)”のデスマッチだ。

ターミネーター
ジェームズ・キャメロン

山下は城戸に対して、ある種の父親的な、あるいは恋人のような執着を見せる。屋上での対決シーン、二人がもつれ合いながら落下していく様は、心中のメタファーにほかならない。

山下は城戸を殺そうとしているようでいて、実は彼の生を最も強く実感させてくれる唯一の他者だったのだ。城戸が山下の死を見届けた後に見せる、あの複雑な表情。そこには、遊び相手を失った子供のような寂寥感が漂っている。

この映画が後世に与えた影響は計り知れない。特に、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督や樋口真嗣監督は、本作からの多大な影響を公言している。

エヴァにおける「日常と隣り合わせの終末」や、都市を破壊するカタルシス、そして何より、社会からはみ出した個人の孤独な戦いというテーマは、『太陽を盗んだ男』のDNAを色濃く継承している。

実際、庵野秀明は自身の作品内で本作の構図やカット割りをオマージュしており、日本のサブカルチャー史において、本作は特異点として存在し続けている。

ラストシーン、放射能に蝕まれた城戸は、新宿の歩行者天国へと歩き出す。彼の手にはプルトニウム爆弾。世界は終わるのか、それとも続くのか。

『太陽を盗んだ男』は、飼い慣らされた現代人への挑発状であり、生きている実感を取り戻すための危険な処方箋。今こそ、この劇薬を飲み干すべき時ではないか!

FILMOGRAPHY