2017/10/1

ツーリスト/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

『ツーリスト』──偽装された愛と追跡のサスペンス

『ツーリスト』(原題:The Tourist/2010年)は、フランス映画『アントニー・ジマー』(2005年)を原案に、ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーが共演、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクが監督を務めたサスペンス映画。ギャングの資金を横領して逃亡中の男アレクサンダー・ピアースが、恋人エリーズ(ジョリー)に「自分に似た男を見つけて身代わりにしろ」と指令を送り、彼女は列車で出会ったアメリカ人教師フランク(デップ)を誘う。やがてフランクは、追跡者や警察に狙われながら、彼女の目的と自らの運命に巻き込まれていく。

ゴージャスという罠──虚構が崩れる瞬間

『ツーリスト』(2010年)は、ハリウッドが最も誤った形で“ラグジュアリー”を誤用した映画のひとつだ。

ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーという、21世紀ハリウッドを象徴するスターが共演し、舞台はヴェネツィア。カメラは光と水面を艶めかしく舐め、衣装は完璧に整い、ホテルの廊下さえも香水のような気品で満たされている。

だがその完璧さこそが、映画の生命を奪っている。フィルムが発するのは熱ではなく冷気だ。もともと本作はフランス映画『アントニー・ジマー』(2005年)のリメイクであり、『善き人のためのソナタ』(2006年)で倫理的葛藤を描いたドイツ人監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクが、ハリウッド資本の枠内で再構築した。

つまり倫理と美学、ドイツ的重厚さとアメリカ的軽薄さが、同一画面内で奇妙に衝突している。ジョニー・デップ演じる高校教師フランクが、逃亡中の大富豪アレクサンダー・ピアースの身代わりに仕立て上げられる──この構造自体はヒッチコック的な「巻き込まれ型」サスペンスを踏襲している。

しかし問題は、デップの“顔”が既に物語を裏切っていることだ。疲弊した観光客のふりをしても、その顔はあまりに洗練され過ぎている。観客は一目で彼が「何かを隠している」と察知し、映画の根幹である“欺瞞”が成立しなくなる。

スターのオーラが、物語を食い潰す。『ツーリスト』は、虚構の装飾が現実感を奪うという、ハリウッド映画が抱える病巣を自ら体現してしまった作品だ。

ロマンティック・サスペンスの死──再演されるヒッチコック

本作は『泥棒成金』(1955年)や『シャレード』(1963年)のような、恋と欺瞞が絡み合う洒脱なスリラーの系譜に連なろうとする。だがその洗練が表層で止まり、ヒッチコックのように「欲望」と「恐怖」を入れ替える構造的知性に到達していない。

ヒッチコック作品では、ロマンスがサスペンスの構造を駆動する。だが『ツーリスト』の愛は単なる装飾だ。アンジェリーナ・ジョリー演じるエリーズは、警察の覆面捜査官として設定されているが、すでに『ソルト』(2010年)や『ウォンテッド』(2008年)で似た役柄を演じたジョリーを再起用することで、サスペンスが自壊している。

観客は初登場の瞬間から彼女を“正体のある女”として認識してしまう。つまり、トリックが仕掛けられる前に暴かれているのだ。脚本上の矛盾もそれに拍車をかける。

なぜアレクサンダーは、無関係の男に自分の身代わりを命じたのか。なぜ恋人と二人きりになった時、正体を明かさないのか。その不合理は“謎”ではなく“怠慢”に見えてしまう。

中盤以降のデップは明らかにキャラクターを変調させ、観客は「どうせ彼がアレクサンダーなのだろう」と確信してしまう。サスペンスの緊張が生まれるべきところで、観客の思考は冷め、映像の美しさだけが空しく残る。

『ツーリスト』が目指したのは、軽やかな遊戯としての“ヒッチコック映画の再演”だったはずだ。だが実際に完成したのは、装飾過剰な観光映画にすぎない。美しい水面が鏡のようにすべてを反射し、物語の深度を奪ってしまった。

虚像としての顔──スター神話の崩落

結局のところ、『ツーリスト』が描いているのは“顔”そのものの物語だ。ジョニー・デップという俳優の“顔”が、彼の演じる役を侵食し、フィクションの可能性を閉ざしてしまう。

彼がどれほど“平凡な教師”を演じても、その顔は既に観光地化している。観客はヴェネツィアの風景を見るように、ジョニー・デップの顔を消費するのだ。

映画のなかで唯一リアリティを持つのは、その表層的な美の冷たさであり、そこに人間的な葛藤は存在しない。これはもはや物語ではなく、スターの亡霊が徘徊するショーケースである。

ティモシー・ダルトン演じる警部が老いを見せた瞬間だけが、かつての“映画の肉体”をわずかに想起させる。ハリウッドがいかにしてスター神話を自壊させていくか──本作はその過程を、無意識のうちに記録している。

ヴェネツィアの迷路のような街並み、錯綜する水路、仮面舞踏会のような人間関係。それらはすべて「虚像としての顔」のメタファーだ。ジョニー・デップが鏡越しに自分の顔を見るたび、彼は“演じる”ことをやめ、ただ“存在する”だけのアイコンになる。

ロマンスも、サスペンスも、謎も、すべてがその顔の前で崩壊する。『ツーリスト』とは、ハリウッドが自らの虚飾を映し出した鏡であり、映画という幻視がどこまで美しく空虚でありうるかを証明した“観光的終末”なのである。

DATA
  • 原題/The Tourist
  • 製作年/2010年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/103分
STAFF
  • 監督/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
  • 製作/グレアム・キング、ティム・ヘディントン、ロジャー・バーンバウム、ゲイリー・バーバー、ジョナサン・グリックマン
  • 製作総指揮/ロイド・フィリップス、バーマン・ナラギ、オリヴィエ・クールソン、ロン・ハルパーン
  • 脚本/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、クリストファー・マッカリー、ジュリアン・フェロウズ
  • 撮影/ジョン・シール
  • プロダクションデザイン/ジョン・ハットマン
  • 衣装/コリーン・アトウッド
  • 編集/ジョー・ハッシング、パトリシア・ロンメル
  • 音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード
CAST
  • アンジェリーナ・ジョリー
  • ジョニー・デップ
  • ポール・ベタニー
  • ティモシー・ダルトン
  • スティーヴン・バーコフ
  • ルーファス・シーウェル
  • クリスチャン・デ・シーカ
  • アレッシオ・ボーニ
  • ジョヴァンニ・グイデッリ
  • ラウル・ボヴァ
  • ブルーノ・ウォルコウィッチ