『暗くなるまで待って』(1967)
映画考察・解説・レビュー
『暗くなるまで待って』(1967年)は、同名のヒット舞台劇をテレンス・ヤング監督が映画化した密室サスペンス。盲目の若妻(オードリー・ヘプバーン)が、アパートに隠された麻薬入りの人形を狙う3人の悪党(アラン・アーキンら)に命を狙われる恐怖の心理戦を描き、ヘプバーンがアカデミー主演女優賞にノミネートされた。
エロティックな妄想と、舞台劇の呪縛から抜け出せない密室
『暗くなるまで待って』(1967年)って、何だかタイトルがめちゃくちゃエロいではないか。だって『暗くなるまで待って』ですよ、アナタ。「恥ずかしいから、暗くしてよ、もう…」みたいなシチュエーションを勝手に想像してしまうじゃないですか。
僕だったら、女性にそんなことを言われたらおとなしくスタンドの明かりを消しますね。んで、いい感じになってからまたパッと明るくしますね。
「もう…暗くしてって言ったじゃない…」と相手が不満を訴えても、「俺、お前の顔をちゃんと見てたいんだよ」とかキザなセリフを吐いとけば、「もう…バカ…」みたいな展開になって、万事オーケーのハッピーエンド直行便ですよ。何言ってんだ俺。
そんな筆者のくだらない妄想はさておき、フレデリック・ノットによるブロードウェイの人気舞台劇を映画化した『暗くなるまで待って』(1967年)は、別にそんな甘酸っぱい変態ドラマではない。
アラフォーを迎えてなお圧倒的に美しいオードリー・ヘプバーンが、慎ましくも聡明な盲目の主婦スージーを熱演し、彼女の家に隠されたヘロイン入りの人形を狙って悪党たちが侵入してくるという、息詰まる密室サスペンス・ドラマの金字塔である。
監督には、『007 ドクター・ノオ』(1962年)や『007 ロシアより愛をこめて』(1963年)でジェームズ・ボンドの基礎を築いたテレンス・ヤング。音楽には、名匠ヘンリー・マンシーニ。そして製作は、当時のオードリーの夫であるメル・フェラーという、超実力派スタッフが集結した。
世間的には大ヒットを記録し、極めて評価の高い映画ではあるが、どーも個人的には演出にメリハリが感じられず、ロバート&ジェーン=ハワード・キャリントン夫妻による脚色にも全く感心できない。
まず最も致命的なのが、カメラ・ポジションになーーーーーーんにも変化がなく、サスペンス映画としての映像的ダイナミズムが完全に死んでいる点だ。
物語のほとんどがアパートのリビングルームで進行し、せっかく寝室側という別の空間があるのにもかかわらず、そこでドラマが全く進行しない。その結果、カットの構図が極端に限定されてしまい、まるで定点カメラで舞台中継を見せられているような息苦しさに終始してしまう。
テレンス・ヤング監督よ、あの007シリーズで見せた空間を立体的に使うアクション演出の冴えは、どこへ消えてしまったのか?アルフレッド・ヒッチコックであれば、同じ密室劇であっても、小道具のクローズアップやカメラのパンを駆使して観客の視線を自在にコントロールし、空間の狭さを逆手に取った極上のスリルを生み出したはず。
本作のカメラはあまりにも単調であり、映画という運動の芸術であることを半ば放棄してしまっていると言わざるを得ない。
不発に終わる小道具の数々
本作最大の罪過は、チェーホフの銃(物語の前半で登場した小道具は、後半で必ず意味を持たなければならないという作劇の基本ルール)が見事なまでに不発に終わる、脚本と演出の圧倒的な甘さだ。
サスペンス映画において、小道具とは観客の予想を裏切り、恐怖を増幅させるための最強の武器でなければならない。しかし本作に登場するアイテムたちは、どれもこれも思わせぶりな顔をして登場するくせに、サスペンスの起爆剤として全く機能しないのである。
第一の不発弾は、冷蔵庫の霜取りだ。序盤、夫のサム(エフレム・ジンバリスト・ジュニア)が帰るまでに冷蔵庫の霜とりをしなければならない、という日常的な設定が提示される。
サスペンス映画の文脈で言えば、この溶け出した水で悪党が足を滑らせるとか、水たまりを利用して感電させるとか、暗闇の中で何らかのトラップとして機能すると誰もが期待するだろう。
ところがどっこい、その後のサスペンスにおいてこの霜取り設定は全く何も機能しないのだ。ただの主婦の日常描写で終わらせるなら、最初からそんなに強調するなと言いたい。
第二の不発弾は、オルゴール人形、マクガフィンである人形には、オルゴール機能が内蔵されているという設定がある。ならば、暗闇の中でオルゴールの音が鳴ってしまい、盲目のスージーが悪党に居場所を知られてしまうという極限のスリルに直結するはず。
しかし実際には、上階の少女グロリアが人形を盗んだという事実が露見するだけの、単なる証拠品としてしか使われない。サスペンスのボルテージを上げる要素としては、完全に死んでいるのだ。
極めつけは、包丁と定着液。劇中、生意気少女グロリアが、逆ギレしてキッチン用品を片っ端から放り投げ、その後和解して散らばった用品を容器にひとつひとつ片付けるという、やたら尺を使った丁寧なシーンがある。
そのなかに鋭利な包丁がキラリと光るので、僕は「なるほど、後半の暗闇の対決でスージーはこの包丁の場所を記憶していて、これを武器として戦うんだな」と膝を打った。
ところがクライマックス、オードリー嬢が悪漢を刺すシーンで手に握られているのは、それとは全く別のキッチンにあった包丁なのである。おい!あの入念な片付けシーンの伏線はどこへ行ったんだ!
さらに、悪漢ロート(アラン・アーキン)に写真用定着液を浴びせるシーンがあるのだが、この定着液が人体にどのような有害な影響を及ぼすのかという事前説明が一切ないため、いきなり液体をぶっかけられて悶絶する悪党を見ても、ポカンとするしかない。
劇作のイロハを無視したこの行き当たりばったり展開には、もはや怒りを通り越して乾いた笑いすら漏れてしまう。
怪演のブレと可愛くない少女──誰に感情移入すればいいのか
さらに観客の没入感を激しく削いでいくのが、役者たちのアンバランスな演技とキャラクター造形だ。
本作の絶対的ヴィランであるロートを演じたアラン・アーキンは、のちに『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)でアカデミー賞に輝く名優だが、本作での彼の芝居はやたらと胡散臭すぎて、完全に浮きまくっている。
彼はスージーを騙すためにロート本人、ロートの老人、ロートの警官という一人三役をこなすのだが、ここでとんでもない逆転現象が起きている。
別人に化けているときの老人や警官の芝居のほうがマトモでナチュラルな演技をしており、素顔のロート本人のほうが不自然なカートゥーン的悪党に見えてしまうのだ。もう何だか訳が分からない。
アーキン自身が「オードリーをいじめる役なんてやりたくない」と渋っていたという逸話があるが、その迷いが彼のベースとなる悪役の芝居を不自然にデフォルメさせてしまったのかも。
ヒッチコック作品におけるスマートで息を呑むような悪役たちと比較すると、ロートの造形はあまりにも安っぽく、恐怖の対象としての説得力に欠けている。
もおうひとつの不満、それは盲目のスージーの目となり手足となる重要な相棒、眼鏡少女グロリア(ジュリー・ヘロッド)が、絶望的に可愛くないということだ。
これはルックスの話をしているのではない(それも少しあるけど)。彼女のキャラクター造形があまりにもヒステリックで、素直さが微塵もないため、観客は彼女に対してサスペンス映画に不可欠な庇護欲を全く抱けないのだ。
『エイリアン2』(1986年)のニュートや、『レオン』(1994年)のマティルダのように、絶体絶命の状況下で主人公と絆を深める疑似親子のドラマが成立して初めて、サスペンスはエモーショナルな高みへと到達するはず。しかしグロリアのあの可愛気のなさは、映画の緊迫感を下支えするどころか、ただのイライラさせるノイズとしてしか機能しない。
『暗くなるまで待って』は、オードリー・ヘプバーンの気品ある美しさと、暗闇というシチュエーションの勝利によって映画史に残る名作の座を獲得した。
だが、その内部構造を冷静に解剖してみれば、回収されない伏線、硬直したカメラ、そしてノイズだらけのキャラクター造形という、サスペンス映画としてはあまりにもお粗末な欠陥建築であることが露呈してしまっている。
- 監督/テレンス・ヤング
- 脚本/ロバート・キャリントン、ジェーン・ハワード・キャリントン
- 製作/メル・フェラー
- 制作会社/ワーナー・ブラザース
- 原作/フレデリック・ノット
- 撮影/チャールズ・ラング
- 音楽/ヘンリー・マンシーニ
- 編集/ジーン・ミルフォード
- 美術/ジョージ・ジェンキンス
- 衣装/ユベール・ド・ジバンシィ
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