『ゼロの焦点』──女たちの昭和史、血の記憶
『ゼロの焦点』(2009年)は、松本清張の同名小説を犬童一心監督が再映画化した社会派サスペンス。結婚したばかりの夫が失踪し、妻・禎子(広末涼子)は彼の過去を追って金沢へ向かう。そこで出会う二人の謎めいた女性(中谷美紀、木村多江)を通じて、戦後日本の階級意識と女性たちの生存戦略が浮かび上がる。第33回日本アカデミー賞では優秀作品賞・優秀監督賞などに輝いた。
北陸の断崖に立つ影──サスペンスの原型
北陸の空を覆う鉛色の雲、荒れ狂う日本海、切り立つ断崖。『ゼロの焦点』(2009年)は、いわば“サスペンスドラマの原型”そのものだ。
今ではパロディ化された数々の定番演出──崖での対峙、遅れてやって来る警察、真相に迫った者が次々と殺される──それらはすべて松本清張によって確立されたテンプレートであり、同時に昭和という時代の集合的無意識でもあった。
1961年の野村芳太郎版から48年を経て、清張生誕100周年記念作品としてリメイクされた本作は、古典の再演であると同時に、“戦後日本という構造そのもの”を再検証する試みである。
監督の犬童一心は、自身初のサスペンス映画に臨むにあたり、大映が誇った田宮二郎主演「黒シリーズ」の画作りを参照した。強烈な明暗、重心の低い構図、被写体を孤立させるカメラワーク。
彼は語りよりも“影の形”によって恐怖を表現する。結果として本作は、古典の模倣に留まらず、“昭和的美学の再現実験”として立ち上がる。
犬童は物語の外殻をそのまま保持しつつ、内部構造を静かに変質させた。彼が行ったのは“リアリズムの刷新”ではなく、“記号としての昭和”の再構築である。
画面には、抑圧された記憶の層が堆積する。古い工場の煙、洋館の暗い影、そして濡れた石畳。全てが過去を呼び覚ます装置となり、観客は“昭和の夢”の内部へと引きずり込まれる。
サスペンスというジャンルは、事件の解明によって秩序を回復する物語形式だ。しかし犬童の『ゼロの焦点』は、むしろ“秩序の喪失”を描く。謎は解かれるが、世界は癒やされない。そこに横たわるのは、戦後という時代そのものが抱える“罪の構造”だ。
戦後の闇に焦点を合わせること
タイトルの“ゼロ”とは、何かを照らす焦点が存在しないという意味でもある。すなわち、“焦点の喪失”である。
戦後の日本は、焼け跡からの復興とともに、倫理や記憶の焦点を失った社会だった。室田佐知子という存在は、その“焦点の欠落”を可視化する。彼女が放つ一言一言は、戦争が生み出した構造的暴力への反照であり、個の罪を超えて“国家の罪”を語っている。
終盤、現代の街並みが挿入される演出は、単なる時代比較ではない。昭和と平成という二つの時間を一枚のスクリーンに並置することで、映画は「戦後の終わりなど存在しない」という命題を提示する。
焦点は依然としてゼロに留まり、私たちはいまだ“戦後”の夢の中を歩き続けているのだ。
血の記憶を背負う女、血の女神
真犯人・室田佐知子(中谷美紀)は、本作最大の変数だ。原作で描かれた“犯罪者の過去”を、犬童は“女性の戦後史”として翻訳した。佐知子は米兵相手の売春によって生計を立てていた“パンパン”だったが、のちに室田耐火煉瓦株式会社の社長夫人となり、上流階級の地位を手に入れる。
だが彼女が殺すのは、過去を知る男たちだ。それは地位の維持のためではない。男たちの支配する社会を破壊し、女性が自ら生を選び取るための闘争でもある。
彼女の殺意は、復讐ではなく“解放”の感情に近い。戦争が残した爪痕が女性たちの身体に刻まれ、社会がその傷を隠蔽し続けた昭和の時代。佐知子はその抑圧された欲望を代弁する亡霊であり、彼女の手が血に染まるほど、時代の偽善が暴かれていく。
木村多江演じる田沼久子の死が自殺であることは、映画的に重要な対位法だ。死によって終わるのではなく、死によって語られる。女性の沈黙が、物語の外側で再び声を取り戻す。
『ゼロの焦点』を支配するのは、間違いなく中谷美紀の存在である。広末涼子や木村多江の抑制された演技が陰影を支える一方で、彼女だけが異質な熱を放っている。
「エミー!エミー!」と絶叫しながら柱に頭を打ちつけ、電気の点灯とともに血まみれの姿を晒すあの場面──それは心理描写を超えて、ほとんど儀式の域に達している。
荒れ狂う感情の波を、映像の美学として昇華するその瞬間、中谷美紀はダリオ・アルジェントの“血の女神”のようにスクリーンを支配する。血の赤が、罪と欲望と美を同時に象徴する。
犬童一心のヒロインたちは常に“業”を背負っている。『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)や『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)では、彼女たちは現実に傷つきながらも、それを受け入れることによって人間的成熟を得た。だが、ここでの佐知子は違う。彼女は赦されない。癒やされない。血を流すことでしか語れない。
その意味で、中谷美紀は犬童映画の系譜の中でも特異な位置に立つ。彼女の演じる“哀しみ”は装飾ではなく構造であり、彼女の身体は物語を超えた記号として機能する。
体中に走る切り傷は単なる傷跡ではなく、戦後日本の裂け目そのものだ。
- 製作年/2009年
- 製作国/日本
- 上映時間/131分
- 監督/犬童一心
- 原作/松本清張
- 脚本/犬童一心、中園健司
- 製作総指揮/島本雄二、島谷能成
- 製作/本間英行
- 企画/雨宮有三郎
- エグゼクティブプロデューサー/服部洋、白石統一郎、市川南、梅澤道彦
- 撮影/蔦井孝洋
- 美術/瀬下幸治
- 録音/志満順一
- 照明/疋田ヨシタケ
- 編集/上野聡一
- 音楽/上野耕路
- 広末涼子
- 中谷美紀
- 木村多江
- 杉本哲太
- 崎本大海
- 野間口徹
- 黒田福美
- 本田博太郎
- 西島秀俊
- 鹿賀丈史
