『ブラック・ダリア』(2006)
映画考察・解説・レビュー
『ブラック・ダリア』(原題:The Black Dahlia/2006年)は、ブライアン・デ・パルマ監督がジェイムズ・エルロイ原作を映画化したノワール・サスペンス。1947年の未解決猟奇事件=エリザベス・ショート殺害を題材にしながら、ファム・ファタール不在の女性描写やキャスティングの失敗により酷評を浴びた。しかし本レビューでは、失敗の中に潜む“デ・パルマ的脂肪分”という過剰な快楽を考察し、散漫さと魅力が同居する独自の映画体験を読み解く。
変態性なきデ・パルマ
ブライアン・デ・パルマがジェイムズ・エルロイ原作を映画化した『ブラック・ダリア』(2006年)は、公開当時から酷評を浴びた。
題材は文句なしに魅力的。エリザベス・ショートという実在の女優が猟奇的に殺害された未解決事件は、ハリウッドの裏側に潜む腐敗や狂気を象徴する題材であり、エルロイはそれを「L.A.四部作」の開幕作として書き上げた。小説は血と欲望と暴力に満ちた暗黒叙事詩として、現代ノワール文学の金字塔とされている。
にもかかわらず、映画版は原作の持つ凄惨さや妖艶さを映像に落とし込めず、観客に「散漫」「不完全燃焼」と感じさせてしまった。ファム・ファタール像の不在、キャスティングの失敗、そしてノワールに欠かせない官能性の欠落――これらが作品を失敗に導いた大きな理由である。
だが同時に、この映画には“過剰な脂肪分”というデ・パルマ独特の旨味も、確かに刻まれているのだ。
エリザベス・ショート事件の背景
まずは簡単にエリザベス・ショート事件について解説しておこう。1947年1月15日の朝、ロサンゼルス・リマートパークの空き地で、22歳のエリザベス・ショートの遺体が発見された。発見者は幼い娘を連れて散歩中の女性で、当初はマネキンと見間違えたほど異様な状態だったという。事件は瞬く間に全米を震撼させ、現在に至るまで未解決のままだ。
ショートはボストン近郊で育ち、戦時中はフロリダでも暮らしながら、1946年に西海岸へ渡った。ウェイトレスとして生計を立てつつ、ハリウッドで女優のチャンスを掴もうとしていたが、確かな出演歴は残されていない。
最後に有力な目撃証言があったのは、1947年1月9日夜のビルトモア・ホテル。恋人関係にあったロバート・“レッド”・マンリーに送られ、ホテルのロビーで姿を消したのが最後だった。マンリーはその後容疑者として逮捕・尋問されたが、最終的には無関係とされた。
事件直後、新聞社宛に切り抜き文字の脅迫状や、ショートの私物が同封された郵便物が届いたことから、世間の注目は一層過熱。マスコミは彼女を「ブラック・ダリア」と呼び、当時のノワール映画『青い蘭(The Blue Dahlia)』との言葉遊びや、黒い服装の好みが由来だとされた。以来、この事件はロサンゼルス暗黒史の象徴として語り継がれ、数多くの書籍や映画の題材となった。
“アメリカ文学界の狂犬”と呼ばれるジェイムズ・エルロイもまた、エリザベス・ショート事件に強烈に惹かれたひとり。小説『ブラック・ダリア』を1987年に刊行し、文学的な暗黒叙事詩へと昇華したのである。
映画化への紆余曲折
『ブラック・ダリア』の映画化は、小説出版直後の1987年から長く“開発地獄”に囚われていた。最初に権利を取得したのはプロデューサーのジェームズ・B・ハリスで、自ら監督する案も浮上していたが進展せず、プロジェクトは頓挫したまま眠ることになる。
その流れを変えたのが『L.A.コンフィデンシャル』(1997年)の成功だった。カーティス・ハンソンがジェームズ・エルロイの小説を映画化した本作は、第70回アカデミー賞で9部門にノミネートされるなど高い評価を得る。
スタジオは再び「L.A.四部作」への関心を強め、特に第1作『ブラック・ダリア』が注目を集めた。脚本家ジョシュ・フリードマンが起用され、開発は再始動する。
まず最初に監督候補として挙げられたのは、デヴィッド・フィンチャー。『セブン』(1995年)や『ファイト・クラブ』(1999年)で暗黒の人間像を描いていた彼にとって、エルロイ原作は理想的な題材に見えた。しかしフィンチャーは、映画ではなく長尺のミニシリーズに近い形を構想しており、予算やスタジオの期待と折り合わず降板。結果的にプロジェクトは再び宙に浮くことになった。
ここで白羽の矢が立ったのがデ・パルマ。『ミッション・トゥ・マーズ』(2000年)の大失敗でハリウッドを離れていた彼にとって、エルロイ原作の映画化は“再起の場”となりうる挑戦だった。複雑なプロット、暴力と欲望の交錯する世界観、そしてロサンゼルスという都市の暗黒性――これらはまさにデ・パルマ好みの題材でもあった。
こうして2005年、ブルガリアとロサンゼルスを舞台に撮影が始まり、翌年公開されたのがデ・パルマ版『ブラック・ダリア』だった。だが完成までの迷走とヴィジョンの不一致が、作品の“散漫さ”を決定づけてしまったとも言える。
女性描写の決定的失敗
まずもって強調すべきは、女性描写の不出来。フィルム・ノワールというジャンルは、その名の通り“女の魅力”を中心に成立している。
バーバラ・スタンウィックが『深夜の告白』(1944年)で見せた冷酷な色香、リタ・ヘイワースが『ギルダ』(1946年)で振る舞った魔性の笑み、ラナ・ターナーが『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1946年)で男を破滅へと導いた姿――いずれも観客を惑わせ、主人公を破滅へ引きずり込む力を持っていた。ファム・ファタール像は、ノワールにおける最重要の駆動装置なのである。
その伝統は古典期にとどまらず、後のネオ・ノワールでも継承されてきた。シャロン・ストーンが『氷の微笑』(1992年)で演じたキャサリンは、男性の欲望と恐怖を同時に喚起する現代的ファム・ファタールの典型である。
彼女が脚を組み替える一瞬の仕草は、まさにノワール的官能と死の予兆を現代観客に叩きつけた。古典からネオ・ノワールに至るまで、ファム・ファタールの存在感はジャンルを動かす“エンジン”であり続けたのだ。
しかし『ブラック・ダリア』は、その肝心な部分で大きくつまずいている。確かにヒラリー・スワンクは優れた演技力を持ち、『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)での強靭な役柄も記憶に新しい。だがファム・ファタール役としては完全に的外れ。
彼女に求められるのは妖艶さや破壊的な魅力だが、画面に映るのは筋肉質で硬質な存在感ばかり。「エリザベス・ショートに似ている」という設定も観客の納得を得られず、説得力を欠いてしまう。
さらに、スカーレット・ヨハンソンの扱いも失敗している。ヨハンソンは当時すでに「現代のマリリン・モンロー」と呼ばれるほど肉感的な魅力を放っていたが、映画の中ではその要素がほとんど活かされない。
ジョシュ・ハートネットとの絡みも驚くほど非セクシュアルで、むしろ兄妹のような淡白ささえ漂う。『ギルダ』でリタ・ヘイワースが一曲歌うだけでスクリーン全体を支配したことを思えば、ここでのヨハンソンの不発ぶりは痛恨である。
ノワール映画において「女の魔力」が欠落すれば、物語全体は駆動力を失う。古典からネオ・ノワールまで積み上げられてきたファム・ファタールの系譜を思えば、デ・パルマがここで躓いたことは、致命的な失敗だった。
脂肪分という過剰の快楽
しかし、この映画を「失敗作」と断じてしまうのはあまりに単純すぎる。なぜなら、デ・パルマはもともと“脂肪分”の監督だからだ。彼の映画には常に「物語を進める上では不要」とされる場面が存在する。それらは批判の対象になるが、同時に観客を魅了してきた。
『ブラック・ダリア』にもその脂肪分は健在だ。冒頭のボクシングシーンは、物語全体のトーンを決定する重要な導入のように見せかけて、結局はほとんど活かされない。警察署内で突然起こる地震も、筋に関わらずただ混乱を付け足すだけ。ヨハンソンの体に残された傷と元カレのエピソードも、ドラマの進行には何ら寄与しない。
しかし、これらの余計な挿話はすべてデ・パルマ的脂肪分なのだ。物語を停滞させ、観客を「なぜ?」と首を傾げさせる。だが同時に、その無駄こそが画面を濃厚にし、他の監督には出せない異様な味わいを残している。
この脂肪分は決して『ブラック・ダリア』に特有のものではない。むしろデ・パルマ映画の伝統的特徴である。『キャリー』(1976年)では、血の雨が延々と降り注ぎ、物語の終わりを引き延ばす。
『スカーフェイス』(1983年)では、アル・パチーノが山のようなコカインに顔を突っ込む場面が過剰な長尺で描かれる。『ボディ・ダブル』(1984年)では、覗きとダンスシーンが物語を中断してまで挿入される。
これらはすべて「なくてもいい」シーンだが、観客の記憶には強烈に焼き付く。つまり、デ・パルマの映画は常に筋肉よりも脂肪分を優先し、過剰さの中に作家性を刻み込んできたのだ。『ブラック・ダリア』の脂肪分も、この系譜に連なる。
亡命監督のノワール
総じて『ブラック・ダリア』は、ノワール映画としては破綻している。女性描写の失敗は致命的で、ファム・ファタール不在のノワールなど存在し得ない。原作との乖離も大きく、観客を引き込む力は乏しい。
ある意味でこの映画は、「亡命監督のノワール」なのかもしれない。『ミッション・トゥ・マーズ』(2000年)の失敗によってハリウッドを追われたデ・パルマは、フランス資本を頼って『ブラック・ダリア』を撮った。つまり彼はアメリカのノワールを、異邦人として外から覗き込んでいた。
外部から覗き込む形でアメリカ・ノワールを再構築したため、古典映画へのフェティッシュは見えるが、現代的リアリティを取り込みきれず、「コスプレ」感が漂ってしまった。
その一方で、デ・パルマ的脂肪分は確かにスクリーンに滴っている。無駄な場面、視線の偏執、過剰な演出。それらが映画を濃厚にし、凡百のサスペンスにはない奇妙な旨味を残す。我々はそこに、この映画の真の価値を見出すべきだろう。
- 原題/The Black Dahlia
- 製作年/2006年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/120分
- ジャンル/ミステリー
- 監督/ブライアン・デ・パルマ
- 脚本/ジョシュ・フリードマン
- 製作/ルディ・コーエン、モシュ・ディアマント、アヴィ・ラーナー、アート・リンソン
- 製作総指揮/ボアズ・デヴィッドソン、ロルフ・デイル、ダニー・ディンボート、ジェームズ・B・ハリス、ヘンリク・ヒュイッツ、ジョセフ・ローテンシュレイガー、トレヴァー・ショート、アンドレアス・ティースマイヤー、ジョン・トンプソン
- 原作/ジェームズ・エルロイ
- 撮影/ヴィルモス・スィグモンド
- 音楽/マーク・アイシャム
- 編集/ビル・パンコウ
- 美術/ダンテ・フェレッティ
- 衣装/ジェニー・ビーバン
- ジョシュ・ハートネット
- スカーレット・ヨハンソン
- アーロン・エッカート
- ヒラリー・スワンク
- ミア・カーシュナー
- マイク・スター
- フィオナ・ショウ
- レイチェル・マイナー
- リチャード・ブレイク
- ケビン・ダン
- マイケル・P・フラニガン
