『エレファント』(2003)
映画考察・解説・レビュー
『エレファント』(2003年)は、米独立映画界の巨匠ガス・ヴァン・サントが、カンヌ国際映画祭を震撼させた「死の三部作」の第二作であり、暴力の本質を「意味」から切り離して提示してみせた問題作。撮影のハリス・サヴィデスによる、被写体の背後を滑るように追い続ける長回しのステディカムが、観客を平穏なオレゴン州の高校の廊下へと誘い込み、そこに流れる空虚で瑞々しい時間の一部へと変貌させる。
カンヌを凍りつかせた、死の詩篇
1999年4月20日、アメリカ・コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件。生徒12人と教師1人が犠牲となったこの凄惨な悲劇をモチーフに、ガス・ヴァン・サント監督が映画化したのが本作『エレファント』(2003年)である。
舞台はオレゴン州ポートランドの郊外にあるワット高校。秋晴れの美しい一日、ジョン、イーライ、ミシェルといった生徒たちは、それぞれの日常──写真現像、フットボール、図書室でのボランティア──を淡々と過ごしている。
しかし、その平穏な風景の裏側で、ピアノを愛する美少年アレックスと親友のエリックは、通販で購入した銃火器を手に、静かにその時を待っていた。
本作の特徴は、劇的なBGMや感情的な演出を一切排し、事件直前のありふれた時間を、複数の生徒の視点から何度も反復して描く点にある。天使のように美しい映像と、その先に待つ地獄。
第56回カンヌ国際映画祭では、そのあまりに静かで衝撃的な暴力描写が審査員団(審査員長パトリス・シェロー)を震撼させ、史上稀に見るパルム・ドール(最高賞)と監督賞のダブル受賞という快挙を成し遂げた。
これは、『GERRY ジェリー』(2002年)、『ラストデイズ』(2005年)へと続く、ガス・ヴァン・サントによる「死の三部作」の中核をなす、映画史に残る問題作である。
死の迷宮を彷徨う天使たち
『エレファント』が仕掛けた最大の実験、それは時間の空間化である。
ガス・ヴァン・サントは、コロンバイン高校の悲劇を描くにあたり、通常のドラマツルギーを完全に放棄した。彼が採用したのは、背後から人物を追尾し続ける執拗なステディカム移動撮影である。
カメラは、ジョン、イーライ、ミシェルといった生徒たちの背中に、まるで守護霊のように、あるいは死神のように寄り添う。彼らが廊下を歩き、食堂を抜け、運動場へ出る。
ワンシーンが終わると、時間は巻き戻され、今度は別の生徒の視点で同じ時間が繰り返される。 この構造は、まさにアドベンチャーゲームやFPS(一人称視点シューティング)の発想そのものではないか!
観客は、複数の視点を反復することで、「さっきジョンがすれ違ったのはイーライだった」「この廊下の先には食堂がある」といったような、校舎という閉鎖空間の見取り図を、脳内に強制的にインストールさせられる。
この空間認識が完了したとき、映画は戦慄のサスペンス装置へと変貌する。なぜなら、我々は銃を持ったアレックスとエリックが「どこから侵入し、どこへ向かえば誰と出くわすか」を、被害者たちよりも正確に予知できてしまうからだ。
これは、ガス・ヴァン・サントが狙った残酷なインタラクティブ性。僕なんぞ、「そっち行っちゃうとイーライが殺されちゃうよーん!!」と、僕は心の中で叫びっぱなしだった。
この手法のルーツには、ハンガリーの巨匠タル・ベーラがいる。ガス・ヴァン・サントは『サタンタンゴ』や『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を見て衝撃を受け、「カメラを長回しで動かし続けること」に目覚めたと公言。
しかし、タル・ベーラが世界の重力を描いたのに対し、ガス・ヴァン・サントは浮遊する青春を描いた。スタンダードサイズ(1.33:1)の狭い画面、天井の高い校舎、そしてハリス・サヴィデスの流麗なカメラワーク。そこには重力がない。
少年少女たちは、まるで水槽の中の熱帯魚のように、死という結末に向かって優雅に泳いでいるだけなのだ。
理由なき殺人の空白を埋める即興
タイトルの『エレファント』とは、「部屋の中に象がいる(見て見ぬふりをする大きな問題)」という英語の慣用句、そしてアラン・クラーク監督が北アイルランド紛争を描いた同名テレビ映画(1989年)に由来する。
アラン・クラーク版が、何の説明もなく次々と人が殺される無機質な暴力を描いたように、ガス・ヴァン・サントもまた「理由」を提示することを拒絶する。
いじめ? ネオナチ思想? 暴力ゲーム? 映画はそれらの要素を断片的に散りばめるが、どれも決定的な動機としては描かない。 「なぜ彼らは殺したのか?」 その問いに対する答えは、空っぽだ。だが、その空虚さこそが、現代のテロリズムの本質ではないか。
このリアリティを支えているのが、徹底した素人キャスティングと、即興演出。登場する高校生たちは、ポートランドの地元でスカウトされた実際の高校生であり、役名も彼らの本名(ジョン、イーライ、アレックスなど)がそのまま使われている。脚本は存在しない。あるのは20ページのスクリプトメントのみ。台詞のほとんどは現場でのアドリブだ。
作家の吉田修一はかつて、「ニュース映像で見た実際の生徒たちのダサさに衝撃を受けた」と書いたが、ガス・ヴァン・サントが選び抜いた少年たちは決してダサくない。彼らは、多感で、繊細で、どこか壊れそうなガラス細工のような美しさを持っている。
いじめられっ子でさえ、フォトジェニックな悲劇性を帯びている。これはドキュメンタリーではなく、ガス・ヴァン・サントというフィルターを通した、極めて高度に洗練された“虚構の青春”なのだ。
“やおい”として再構築されたコロンバイン
本作最大の問題点であり、同時に最大の魅力でもあるのが、犯人であるアレックスとエリックの描写だ。
史実のコロンバイン高校銃乱射事件の犯人(エリック・ハリスとディラン・クレボールド)は、事件当日の朝、ボウリングに興じていたことがマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』で明らかにされている。
彼らはマリリン・マンソンを聴き、ドゥーム(DOOM)というFPSゲームに熱中する、あまりにもありふれたティーンエイジャーだった。
しかし、『エレファント』のアレックスとエリックは違う。アレックスは自宅のピアノでベートーヴェンの『月光』や『エリーゼのために』を奏でる。その旋律は、これから始まる殺戮へのプレリュード(前奏曲)のように美しく響く。
極めつけは、犯行直前のシャワールームのシーン。「僕、今までキスしたことないんだ」 そう言って二人の少年は、水滴るシャワーの中で唇を重ねる。
このシーンは史実には存在しない。完全にガス・ヴァン・サントの創作だ。ゲイであることをカミングアウトしている彼にとって、この少年たちの関係性は、単なる共犯者以上のもの──社会から疎外された者同士の、魂の結合として描かれている。
残酷なまでに哀しく、そして美しい、ボーイズ・ラブ的耽美主義。彼らにとって、学校を血に染める行為は、テロリズムであると同時に、二人だけで完結する心中の儀式だったのではないか。
ガス・ヴァン・サントは、道徳や倫理を軽々と飛び越え、殺人を犯す少年たちを“堕ちた天使”として神話化した。彼らの白い肌、濡れた髪、そして冷酷な銃口。そのすべてが、見る者の倫理観を麻痺させるほどに美しい。
『エレファント』は、現実の悲劇をモチーフにしながら、そこから「理由」と「教訓」を剥ぎ取り、純粋な「現象」と「美」だけを残した。
だからこそ、この映画は恐ろしい。私たちは、画面の中で次々と倒れていく生徒たちに胸を痛めながら、同時に、銃を乱射する少年たちの孤独なシルエットに、どうしようもなく魅せられてしまうのだから。
- 監督/ガス・ヴァン・サント
- 脚本/ガス・ヴァン・サント
- 製作/ダニー・ウルフ
- 製作総指揮/ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン
- 制作会社/HBO フィルムズ、ファインライン・フィーチャーズ
- 撮影/ハリス・サヴィデス
- 編集/ガス・ヴァン・サント
- 美術/ベンジャミン・ヘイデン
- 衣装/メアリー・クリス・イェーガー
- 録音/レスリー・シャッツ
- エレファント(2003年/アメリカ)
