『キリング・ミー・ソフトリー』(2002)
映画考察・解説・レビュー
『キリング・ミー・ソフトリー』(原題:Killing Me Softly/2002年)は、チェン・カイコー監督がロンドンを舞台に描いたエロティック・スリラー。キャリアウーマンのアリスは、偶然出会った登山家アダムと衝動的に結婚するが、夫の過去には謎が潜む。見知らぬ女から届く脅迫文や封印された記憶が、ふたりの関係を崩壊へ導く。快楽と恐怖が交錯する中、愛は次第に閉塞の形をとっていく。
『ツイン・ピークス』の少女から、虚無を宿したドールへ
正直に告白しよう。僕がヘザー・グラハムという女優に魂を抜かれたのは、デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』シーズン2(1991年)で、彼女がアニー・ブラックバーン役を演じたときだった。
クーパー捜査官(カイル・マクラクラン)と恋に落ちる、元修道女という謎の役どころ。その巨大な瞳には、俗世を知らない聖女の輝きが宿っていた。
あれから10年。ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』(1997年)でのローラーガール役を経て、彼女が辿り着いたのが、この『キリング・ミー・ソフトリー』のアリス役である。
ここでの彼女は、かつてのアニーが持っていた聖性を保持したまま、それを性的対象として無防備に差し出すという、危うい進化を遂げている。
デザイナーとして安定した生活を送っているアリスは、交差点で見知らぬ男アダム(ジョセフ・ファインズ)と視線を交わした瞬間、理性のタガが外れてしまい、言葉もなくタクシーに乗り込み、アパートで獣のように交わる(エロい!)。
この導入部は、リアリズムの観点からは噴飯もの。だが、ヘザー・グラハムのあの空虚な瞳がアップになった瞬間、僕たちは論理的な思考を停止させられる。
彼女の演技プランは徹底して受動的だ。アダムに束縛され、嫉妬され、過去の女たちの幻影に怯える。だが、彼女の白い肌は恐怖で青ざめるというよりは、照明を受けて陶磁器のように冷たく輝く。
チェン・カイコー監督は、彼女を自立した現代女性としてではなく、自身の美学を投影するための完璧なドール(人形)として扱った。
彼女がベッドの上で裸体を晒すとき、そこにあるのは生々しいエロスではなく、ショーケースの中の美術品のような“触れられない美”として立ち上がる。
『ツイン・ピークス』のアニーがブラック・ロッジに囚われたように、ここでもヘザー・グラハムは「美しすぎるがゆえに世界に幽閉される女」を演じる。
その哀しいまでの被写体としての強度が、このB級スリラーを奇妙な高みへと押し上げているのだ。
北京の皇帝がロンドンで仕掛けた、京劇的サスペンス
本作最大のミステリーは、「なぜチェン・カイコーなのか?」という一点に尽きる。中国第五世代の旗手として、歴史のうねりと個人の運命を重厚に描いてきた彼が、なぜニッキ・フレンチの通俗小説を映画化したのか?
しかし、完成したフィルムを細部まで検分すれば、そこにはカイコーの作家性が、歪んだ形で、しかし確かに刻印されていることが分かる。
カイコーは、舞台となるロンドンの街を決して生活の場としては撮らない。『いつか晴れた日に』(1995年)の名匠マイケル・コールターによる撮影は、ロンドンの曇り空を、まるで墨絵のようなグラデーションで捉える
そして室内に入れば一転、深紅のカーテンやシーツが画面を支配する。この色彩設計は、明らかに彼の代表作『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)や『花の影』(1996)に通じる、アジア的デカダンスの移植だ。
アダムの職業が登山家である設定も、カイコーの手にかかれば神話的な意味を帯びる。彼は命綱を操る男であり、それは性愛シーンにおけるボンデージ(緊縛)のメタファーとなる。
ロープでアリスを縛り上げるアダムの姿は、「運命の赤い糸」を物理的に可視化した、過剰な愛の表現なのだろう。カイコーは、通俗的なエロティック・サスペンスを、まるで京劇の悲劇であるかのように真面目に、重厚に演出してしまった。
登場人物たちの行動原理は、西洋的な心理学ではなく、東洋的な宿命論で動く。だからこそ、アリスとアダムの恋は、出会った瞬間から破滅に向かって直滑降するしかない。
このジャンル錯誤とも言える演出のズレが、映画全体にシュルレアリスムのような浮遊感を与えている。観客は、美しい映像に酔いながら、これは現実のロンドンではなく、カイコーの脳内に構築された巨大なセットなのだと気づかされることになる。
あまりにも真面目な喜劇
物語が後半に進み、アリスが夫の過去を疑い始めると、映画は制御不能な暴走を始める。アダムの姉(ナターシャ・マケルホーン)の登場、過去の恋人の失踪、そして警察への通報。
ヒッチコックの『断崖』(1941年)や『レベッカ』(1940年)を意識した展開だが、どうやらカイコーにはサスペンス的演出への関心は皆無のようだ。彼はひたすら、登場人物たちの情念の濃度だけを高めていく。
ジョセフ・ファインズは常に眉間に皺を寄せ、シェイクスピア俳優のような重厚さで、「君を愛しすぎている」と囁く。登山用ロープを手に持ち、アリスを見つめるその眼差しは、殺意なのか愛なのか判別不能だ。
本来なら恐怖を感じるべき場面だが、あまりの過剰さと深刻さに、観客の感情は一周回って“笑い”へと転化しそうになる。これこそが、スーザン・ソンタグが定義したキャンプの美学──真剣なあまりに滑稽になってしまう感性だ。
チェン・カイコーは、ハリウッドという異文化の中で、自身の美意識を貫こうとして盛大にスリップした。だが、小さくまとまった凡作よりも、この『キリング・ミー・ソフトリー』のような壮大な失敗作の方が、映画としては遥かに愛おしい。
ラストシーン、雪山での対決から日常へと戻ったアリスが、ロンドンの街を歩く。その表情は、悪夢から覚めたというよりは、憑き物が落ちて空っぽになったようだ。
本作は、アジアの巨匠がハリウッドに残した、美しくも歪んだ爪痕である。それは、エロティック・スリラーの墓標であり、同時に、理屈を超えた映像美の記念碑として、カルト的な輝きを放ち続けているのだ。
- 監督/チェン・カイコー
- 脚本/カラ・リンドストロム
- 製作/ジョー・メジャック、リンダ・マイルズ、マイケル・チニック
- 製作総指揮/アイヴァン・ライトマン、トム・ポラック
- 原作/ニッキ・フレンチ
- 撮影/マイケル・コールター
- 音楽/パトリック・ドイル
- 編集/ジョン・スコット
- 美術/マーク・ゲラティ
- 衣装/フィービー・デ・ゲイ
- キリング・ミー・ソフトリー(2001年/アメリカ)
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