『キリング・ミー・ソフトリー』──快楽の果てにある孤独の肖像
『キリング・ミー・ソフトリー』(原題:Killing Me Softly/2002年)は、チェン・カイコー監督がロンドンを舞台に描いたエロティック・スリラー。キャリアウーマンのアリスは、偶然出会った登山家アダムと衝動的に結婚するが、夫の過去には謎が潜む。見知らぬ女から届く脅迫文や封印された記憶が、ふたりの関係を崩壊へ導く。快楽と恐怖が交錯する中、愛は次第に閉塞の形をとっていく。
衝動としての愛──都市に漂うアクシデンタルな出会い
1990年代のハリウッドで、ひとときスクリーンを華やがせた女優たちの行方は、映像の変遷をそのまま映している。
シェリリン・フェンはリンチの夢から追放され、メッチェン・アミックはセクシュアルな脇役として消費され、ララ・フリン・ボイルは変貌の果てにスクリーンから遠ざかった。
そんな中で生き残ったのがヘザー・グラハムだった。『ブギーナイツ』で見せた陶酔と自壊のあいだの演技は、時代の終わりの匂いを帯びていた。『キリング・ミー・ソフトリー』は、その延長線上にある──性的解放を装いながら、実は孤独の深化を描く映画である。
物語は唐突に始まる。ロンドンの交差点で出会った男女が、視線だけで互いを貫き、ほとんど言葉もなく結ばれる。理性よりも先に身体が反応し、社会的アイデンティティは剥がれ落ちる。
キャリアウーマンである主人公アリスは、抑圧された自我の代償として、全身で衝動に身を委ねる。だがその「解放」は自由ではなく、むしろ〈従属〉に近い。
ヘザー・グラハムの演技は、官能の昂揚と同時に、どこか被支配的な受動性を孕んでいる。快楽の瞬間、彼女の瞳は空洞を映す。そこに宿るのは欲望ではなく、孤独を埋めるための自己投企だ。
都市という匿名的な空間は、出会いを祝福するのではなく、肉体の衝動を使い捨てるプラットフォームとして機能している。愛は偶然に始まり、偶然に崩壊する。すべてが加速し、意味が追いつかない。
チェン・カイコーが仕掛けたデカダンスの罠
監督は『さらば、わが愛/覇王別姫』で知られるチェン・カイコー。彼がハリウッドで選んだ題材が、エロティック・スリラーだったという事実には、ある種の皮肉がある。
かつて京劇という「演じる身体」を描いた作家が、今度は〈快楽を演じる身体〉に向き合う。SM的性愛の描写は過剰だが、それが下劣にならないのは、陳の構図が常に〈美〉と〈暴力〉の同居を意識しているからだ。
光の中に影を閉じ込め、赤いサテンのシーツを滲ませる撮影は、愛の危うさを絵画的に刻む。だが、その美学は同時に映画の空洞を露呈させる。官能は高貴な形式に昇華されるほど、現実感を失っていく。
観客が目撃するのは、肉体の交わりではなく、美しくデザインされた欲望のシミュレーションだ。陳凱歌は無意識のうちに、ハリウッドという幻想装置の中で、自身の作家性をも商品化してしまった。
アリスは次第に夫の過去に不安を抱き始める。見知らぬ女から届く脅迫文、封じ込められた記憶。ヒッチコック的な「信頼の崩壊」の構図が展開するが、そこにあるのはサスペンスではなく、信頼そのものが幻想であるという冷たい現実だ。
愛する者を疑うという行為は、愛の証明でもある。だが陳凱歌は、その感情の震えをスリルとしてではなく、静止した時間として描く。物語が終焉に向かうころ、映画はノワール的暗黒を失い、ただの白い光に溶けていく。暴力は外側からではなく、内面から侵食する。
アリスの身体は支配の象徴であり、同時に囚われの空間でもある。快楽は恐怖に隣接し、愛は閉塞の形をとる。ヘザー・グラハムの裸体が示す無防備さそのものが、現代女性の孤独を語っている。
ハリウッドに迷い込んだアジアの詩学
『キリング・ミー・ソフトリー』は、エロティック・サスペンスの皮を被った、異国監督による迷走の記録でもある。陳凱歌の映像は美しい。だがその美しさは、語るべきものを喪失した映像の自己装飾でもある。
ハリウッドにおいて、彼の美意識は〈異国的〉な商品として消費され、感情は形式へと還元される。愛も暴力も、カメラの中で等価にデザインされ、観客はその滑らかな虚無に酔う。
ヘザー・グラハムの肉体は、演出者たちの野心と無力を映す鏡だ。つまりこの映画は、性愛ではなく〈見ることの不安〉を描いている。観客はその鏡に映る自分自身の欲望に戸惑いながら、最後まで沈黙を強いられるのだ。
- 原題/Killing Me Softly
- 製作年/2001年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/101分
- 監督/チェン・カイコー(陳凱歌)
- 製作/ジョー・メジャック、リンダ・マイルズ、マイケル・チニック
- 製作総指揮/アイヴァン・ライトマン、トム・ポラック
- 原作/ニッキ・フレンチ
- 脚本/カラ・リンドストロム
- 撮影/マイケル・コールター
- ヘザー・グラハム
- ジョセフ・ファインズ
- ナターシャ・マケルホーン
- ウルリク・トムセン
- イアン・ハート
- ジェイソン・ヒューズ
- ヘレン・グレース
- オリヴィア・ポレット
- ロナン・ヴィバート
- イアン・アスピナル
![キリング・ミー・ソフトリー/チェン・カイコー[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/unnamed-file-1-e1762657672960.webp)