『凶悪』(2013年)は、日本映画界に「実録犯罪もの(J-ノワール)」の復活を轟かせた記念碑的作品である。山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキーという異色のアンサンブルが、実在の「茨城上申書殺人事件」を再現。単なる告発映画に留まらず、暴力を「快楽」として消費する加害者と、それを「正義」の名の下に消費する我々観客の共犯関係を、冷徹かつ悪趣味なまでの熱量で暴き出す。
悪い大人たちの遊戯──リリー&ピエールの戦慄
新御茶ノ水駅の改札で、『凶悪』(2013年)のポスターを見たときの衝撃は今も鮮明に覚えている。
山田孝之の背後で、リリー・フランキーとピエール瀧が浮かべる薄気味悪い笑顔。日常の風景を切り裂くような「凶悪」の二文字。これは、日本映画が長らく忘れていた毒を盛ったマスト・ウォッチ・ムービーと確信し、いそいそと映画館に足を運んだ次第。
僕にとって、リリー・フランキーとピエール瀧は、ポップカルチャーの海を自由に泳ぐ悪い大人の象徴だった(もちろん法を犯す意味ではない)。
音楽、サブカル、バラエティの境界線を無効化し、大人の悪ふざけを体現する才人たち。白石和彌監督の最大の功績は、この二人が持つ屈託のなさこそが、最もサイコパスに近い資質であると見抜いた点にある。
劇中、須藤(ピエール瀧)と「先生」(リリー・フランキー)が行う殺人は、あまりにも軽い。まるで居酒屋で「とりあえず生!」と頼むようなノリで、彼らは老人を廃屋に運び込み、酒を注ぐように高濃度のウォッカや電気ショックを浴びせる。
監督は撮影時、二人にこう指示したという。「いつもの飲み会のような感じで」。その演出プランは、残酷なまでに成功している。彼らにとって暴力とは、憎しみの爆発ではなく、日常の退屈を紛らわせるビジネス兼レクリエーションなのだ。
スタンリー・キューブリックが『時計じかけのオレンジ』(1971年)で暴力をダンスとして描いたように、『凶悪』は殺人を宴会芸として提示する。
特にピエール瀧が連呼する「ブッコむ」というスラング。本来は土木現場やヤクザ用語で「埋める・殺す」を意味する言葉だが、彼が発すると、まるでパチンコ玉を穴に入れるような軽さが宿る。この軽薄さこそが、被害者の尊厳を根こそぎ奪い去る真の「凶悪」ではないか。
感染する暴力、正義という名の猛毒
本作の構造が優れているのは、怪物たちと対峙するジャーナリスト・藤井(山田孝之)を、決して清廉潔白なヒーローとして描いていない点にある。
藤井は、死刑囚・須藤の告発に基づき、先生と呼ばれる首謀者を追い詰める。当初はジャーナリズムの使命感に燃えていた彼だが、調査が進むにつれ、その瞳には狂気が宿り始める。
犯人を追い詰める快感、暴かれる真実の興奮。彼はいつしか、取材対象である須藤とシンクロし、家庭をまったく顧みない狂信者へと変貌していく。
ここで強烈なフックとなるのが、藤井の妻(池脇千鶴)のエピソードだ。 彼女は認知症の義母の介護に疲れ果てている。夫は「仕事が忙しい」と逃げるばかり。ある日、彼女は義母に暴力を振るい、あろうことか「楽しかった」と呟く。
朝ドラ女優のような清純なイメージを持つ池脇千鶴に、この鬼畜なセリフを言わせる脚本の悪意!だが、これこそが本作の核心だ。暴力は、廃屋の中だけの特殊事情ではない。我々のリビングのすぐ隣、介護という日常の延長線上にごろんと転がっている。
一部の演出──例えば、鬼編集長(中瀬ゆかり)が缶コーヒーを奢るシーンや、藤井の「俺はいま忙しいから」というステレオタイプな拒絶──には、確かに既視感のあるベタさが散見される。まるで一昔前のVシネマや再現ドラマのような安っぽさだ
しかし、穿った見方をすれば、この陳腐な日常描写があるからこそ、リリー&ピエールの異常な遊戯が際立つとも言える。退屈で類型的な日常に飽き飽きしているからこそ、人は「凶悪」な非日常に魅せられてしまうのではないか?
若松イズムの継承と、観客への告発状
本作のルーツを語る上で、白石和彌監督が故・若松孝二監督の愛弟子であった事実は外せない。若松プロといえば、低予算の中で権力への怒りとエロス、そして暴力を叩きつけてきた日本映画のゲリラ部隊だ。 『凶悪』には、その若松イズム、パンク精神が脈打っている。
原作は『新潮45』編集部によるノンフィクション『凶悪 -ある死刑囚の告発-』。警察が動かなかった事件を、雑誌ジャーナリズムが暴いたという快挙だが、映画はその「正義」さえも解体する。
ラストシーン、面会室での藤井と「先生」の対話。「先生」はカメラ(=観客)を見据えて言い放つ。「一番死んでほしい人間は誰ですか?」と。
これは、安全圏からこの殺戮ショーを楽しんでいる我々への直接的な攻撃だ。 凶悪事件をエンターテインメントとして映画化する行為が「凶悪」なら、それをポップコーン片手に消費し、「ピエール瀧怖すぎw」とSNSに書き込む我々もまた、共犯者=「凶悪」の一部なのだ。
この映画が残す後味の悪さは、一級品の毒が全身に回った証拠である。リリー・フランキーとピエール瀧という悪い大人が仕掛けたこの罠に、我々は喜んで掛かるしかない。なぜなら、そこには人間という生き物が隠し持っている、どうしようもない“業”が映っているからだ。

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