『薔薇の名前』(1986)
映画考察・解説・レビュー
『薔薇の名前』(原題:The Name of the Rose/1986年)は、14世紀の北イタリア修道院で連続殺人事件が発生し、修道士ウィリアムと弟子アドソが真相を探る物語である。図書館の迷宮を舞台に、信仰と理性、笑いと禁欲、知と権力が交錯する。やがて二人は、知識そのものが権威の道具となる現実と向き合っていく。
知の構築物としての『薔薇の名前』
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(1980年)は、歴史ミステリーの装いをまといながら、根本的には「知の構築物」である。
舞台は14世紀初頭、北イタリアのベネディクト派修道院。だが、そこで展開されるのは殺人事件の推理劇というよりも、神学、スコラ哲学、アリストテレス的思考、記号論の交錯が織りなす知的ラビリンスだった。エーコは物語の形式を借りて、知識が権力を形成するメカニズムそのものを暴いていく。
登場人物たちは、書物を読む者であると同時に書物に支配される者でもある。修道士ウィリアムと弟子アドソが歩くその迷宮は、実際の図書館である以前に「世界=書物」という中世的宇宙観の縮図だった。
書物は世界を記述するための手段であると同時に、世界を定義し、閉じ込める檻でもある。エーコの小説は、この知のパラドクス──「知ることは、同時に誤解することでもある」という自己言及的構造──を主題化した哲学的寓話だった。
『薔薇の名前』の中心にあるのは、失われたアリストテレス『詩学』第二部──すなわち「笑い」についての書物をめぐる想像的再構築である。キリストは笑ったのか、笑うことは神の理性に適うのか。
笑いの是非をめぐる議論は、神学論争であると同時に、知の解釈権をめぐる権力闘争でもある。エーコはこのモチーフを通じて、「真理」を誰が所有するのかという問いを浮上させる。
修道院の蔵書は知識の集積体であるが、同時にそれは「知を独占するための装置」であり、図書館の迷宮構造はその支配の象徴だ。ウィリアムが探偵的知性を駆使して謎を解く行為も、結局のところ別の「権威的言説」を再生産しているに過ぎない。
エーコはここで、知を信仰する者の傲慢さ──すなわち、知識が現実を制御できるという近代的幻想──を徹底的に解体する。タイトル「薔薇の名前」が示すのは、名が残っても実体が消えるという記号論的虚無。
薔薇が“何か”を象徴するのではなく、「象徴そのものが無効化される場所」こそがエーコの目指した終着点だった。
映像化の暴力──知の迷宮からゴシックの迷宮へ
ジャン=ジャック・アノーによる映画版『薔薇の名前』(1986年)は、原作の知的構築物を大胆に解体。800ページを超える哲学的迷宮を、2時間の映像へと翻訳する過程で、エーコが仕掛けた記号論的罠の多くは失われた。
映画は、知識の体系を再現する代わりに、視覚的陰影と感覚的快楽を重視。陰鬱な修道院の回廊、壺に逆さに詰め込まれた死体、インクで黒く染まった口腔──これらの映像は、知的記号のネットワークをゴシック的幻想へと変換する。
トニーノ・デリ・コリの撮影は、光と影を用いて「見ること」の快楽を徹底的に演出する。だがその一方で、見ること=知ることの関係性は断絶される。
映画が描くのは「知の迷宮」ではなく、「感覚のラビリンス」だ。そこでは、読者の解釈行為に代わって、観客の視覚的興奮が支配する。アノーは、エーコが構築した“意味の過剰”を、“映像の過剰”によって上書きしたのである。
映画版が観客に親しみやすく感じられるのは、物語がシャーロック・ホームズ的構図を踏襲しているから。ショーン・コネリー演じるウィリアムは、理性と観察力を武器に事件を解く冷徹な知性の体現者であり、若き弟子アドソ(クリスチャン・スレーター)は、ワトソン役としてその知を語る語り手に位置づけられる。
ウィリアムの姓「バスカヴィル」が『バスカヴィル家の犬』からの引用であることは、アノー自身がこの“探偵の神話”を意図的に導入していることを示している。知の冒険は、ここで「推理の冒険」へと翻訳される。
エーコが描いたのは、知の限界をめぐる哲学的戦いだったが、アノーはそれを「中世版ホームズ譚」として再神話化した。つまり、映画は原作のメタ言説を物語的快楽に還元することによって、知の迷宮を“娯楽の形式”へと再構成したのだ。
それは裏を返せば、知識が再び物語に取り込まれ、権威的な枠組みの中に封じ込められてしまうという皮肉でもある。
知と映像のはざまで──二重の解釈行為
『薔薇の名前』は、文学と映画という二つの異なるメディアが、いかに同一のテーマを別の言語で語りうるかという“解釈行為の実験”である。エーコの原作は、読者に「解釈の無限性」を体験させる知的冒険であり、アノーの映画はその迷宮を「視覚的記号」に翻訳した。
両者の差異は、どちらが優れているかという問題ではない。むしろそれは、「知識とは翻訳によってしか伝わらない」というエーコ的パラドクスの再演である。
原作が理性の終焉を語るなら、映画は感覚の勝利を語る。だがその感覚もまた、視覚という記号の体系に縛られている点で、決して自由ではない。
『薔薇の名前』というタイトルが示すように、名が独り歩きする世界では、知も映像も等しく虚無に向かう。名は残り、実体は消える。エーコの小説とアノーの映画は、その二つの運命を鏡像のように映し合っている。
読むことと見ること。そのどちらの行為も、世界を理解するための“試み”であり、“敗北”であるのかもしれない。
- 監督/ジャン=ジャック・アノー
- 脚本/ジェラール・ブラッシュ、ハワード・フランクリン、アンドリュー・バーキン、アラン・ゴダール
- 製作/ベルント・アイヒンガー
- 製作総指揮/トーマス・シューリー
- 原作/ウンベルト・エーコ
- 撮影/トニーノ・デッリ・コッリ
- 音楽/ジェームズ・ホーナー
- 編集/ジェーン・サイツ
- 美術/ダンテ・フェレッティ
- 衣装/ガブリエラ・ペスクッチ
- 薔薇の名前(1986年/フランス、西ドイツ、イタリア)
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