2018/1/29

『ローマの休日』(1953)自由”と身分のあいだで揺れる戦後ロマンスの原点

『ローマの休日』(1953)
映画考察・解説・レビュー

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『ローマの休日』(原題:Roman Holiday/1953年)は、王室の束縛に耐えきれずローマの街へ飛び出したアン王女と、偶然出会った新聞記者ジョーの一日を描くロマンティック・コメディ。 束の間の自由を満喫する二人は、観光地を巡りながら次第に惹かれ合っていくが、身分の違いが二人の恋に切ない結末をもたらす。 ウィリアム・ワイラー監督が手掛けた、オードリー・ヘップバーンの輝かしいデビュー作にして、永遠の名作。

ダルトン・トランボと『ローマの休日』の脚本秘話

『ローマの休日』(1953年)の脚本は、長らくイアン・マクレラン・ハンター名義とされてきた。しかし、実際にシナリオを書き上げたのは、赤狩りによってハリウッドから追放されていた脚本家ダルトン・トランボである。

彼は『恋愛手帖』(1940年)や『東京上空三十秒』(1944年)などで名を馳せた名脚本家であったが、1947年に非米活動委員会(HUAC)の喚問に召喚され、証言を拒否したために〈ハリウッド・テン〉の一人として収監される。

1950年に釈放された後も、ブラックリストによって表舞台に立てず、匿名で脚本を執筆せざるを得なかった。このあたりの経緯は、ジェイ・ローチ監督の『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015年)に詳しい。

『ローマの休日』の原案は、1940年代後半にフランク・キャプラのリバティ・フィルムズによって取得されたが、予算面の問題などから頓挫し、脚本は宙に浮いたままになっていた。

その後、プロジェクトはパラマウントへと移り、ウィリアム・ワイラー監督のもとで映画化が再始動する。だが、共産主義者とされてブラックリストに載ったトランボに表立った仕事の機会はなく、彼は友人のイアン・マクレラン・ハンター名義で脚本を提出することになる。

この構図は、まるで身分を隠してローマの街に繰り出すアン王女そのもの。匿名の作家と匿名の王女――物語と現実が奇妙に共振していたのだ。

アカデミー賞では1954年に「原案賞」をハンター名義で受賞したが、1991年に全米脚本家組合(WGA)が正式に「原案はトランボによるもの」と訂正し、1993年にはアカデミー賞自体も受賞者をトランボに修正。

さらに2011年には「脚本」のクレジットもトランボに回復され、今日では「Story by Dalton Trumbo/Screenplay by Dalton Trumbo, Ian McLellan Hunter, John Dighton」と表記されている。2003年に発売されたDVDでは、本編クレジットにトランボの名前が正式に復帰した。

ブラックリストの影響はトランボ本人だけでなく、彼の“フロント”を務めたハンターにも及び、彼も後にブラックリスト入りすることになる。友情と職業倫理の狭間で生まれたこの協働は、ハリウッド史における象徴的な事件として長く議論されてきた。

そして『ローマの休日』が持つ普遍的な魅力――身分を超えた自由への憧憬――は、匿名のまま筆を執った脚本家の境遇と重なり合い、いっそうの説得力を獲得していたのである。

オードリー・ヘップバーン抜擢とグレゴリー・ペック

当初、アン王女の有力候補はエリザベス・テイラーやジーン・シモンズといったトップ・スターたちだった。しかしウィリアム・ワイラーは“新鮮な顔”を求め、1951年9月18日にロンドンのパインウッド・スタジオで撮られたオードリー・ヘップバーンのスクリーンテストに目を留めた。ワイラーは「ここ最近で最良のテストの一つ」と書き送っており、この一通の手紙が配役を決定づけたのである。

ただしヘップバーンにはブロードウェイ版『ジジ』の予定が重なっており、製作は彼女のスケジュールに合わせて約半年の延期を受け入れたと記録されている(別資料では違約金の支払い説もあるが、一次資料性の高いAFIカタログは“延期”としている)。

一方のジョー役は、当初ケーリー・グラントへのオファーがあったが本人が辞退し、グレゴリー・ペックに白羽の矢が立ったといわれている。ペックという確立したスターを配して、無名女優の起用リスクを打ち消すという、ハリウッド的計算も作用していたわけだ。

決定的だったのは、クレジットに関するペックの振る舞い。彼の契約は本来「主演単独・タイトル上の単独トップ」だったが、撮影の途中でヘップバーンの“光”を確信したペックは代理人に連絡し、彼女に自分と同格のトップビリングを与えるよう求めた。

スタジオはこれを受け入れ、結果的に“新人”の名はポスターやオープニングから同格に躍り出る。伝えられるところでは、ペックは「この子はオスカーを取る。僕だけが上にいたら滑稽に見える」とまで語ったという。

この寛容は政治的姿勢とも地続きである。ペックは1947年、非米活動委員会(HUAC)に抗議する「憲法第一修正委員会(CFA)」の呼びかけに連なる立場を公にし、ハリウッドの“赤狩り”に対して批判的だった。

『ローマの休日』の脚本家ダルトン・トランボがブラックリスト下にあった事実を思えば、彼の等身大の良識が現場でどのように働いたかは想像に難くない。

かくして、スターの余裕と新人の瑞々しさが互いを引き上げる理想的な配置が成立した。既存の映画的権威(ペック)と、新たに生まれる神話(ヘップバーン)を“同格”に置くことで、作品そのものが「誕生の物語」としてスクリーン内外で二重化されたのである。

オードリー・ヘップバーンの神がかった魅力

『ローマの休日』におけるオードリーは、とてもキュート。ひたすらキュート。ただただキュートである。

美容院でショートカットにして満面の笑みを浮かべる姿、スペイン広場でアイスを食べる瞬間、真実の口でおっかなびっくりする仕草、そして別離に涙を浮かべる表情――その一つひとつが観客の心をとらえて離さない。その佇まいは、もはや非現実的ですらある。

舞台=ローマの現実光も、彼女の非現実性を逆説的に強化する。全編ローマで撮影・録音されたという事実が、ネオレアリズモ的な街の息遣いを作品に導入し、その“生”の手触りが、画面中央のヘップバーンの“夢”性を際立たせる。現実の街×非現実の王女――この反転が彼女の神話化を加速させたのだ。

「セックスを感じさせない」というオードリー評は半ば正しく、半ば不十分である。より正確には、露骨な官能性を提示しない代わりに、〈触れ得ない距離〉の官能を最大化している、というべきだろう。

視線が交わるのに身体は交わらない、触れそうで触れない――この“倫理的エロス”が、観客の憧憬(と罪悪感のなさ)を同時に駆動する。

この設計は、マリリン・モンローの「可視化された官能」との対比でいっそう明瞭になる。モンローが〈体温の上昇〉でフレームを満たすスターだとすれば、ヘップバーンは〈体温の制御〉でフレームを浄化するスターだ。

前者が欲望の直観なら、後者は欲望の節度――どちらも映画的快楽の中核であるが、ヘップバーンは抑制の詩学を近代ロマンスの理想として結晶させた。

そして、この抑制は彼女固有のスター・ペルソナ――洗練と無垢の同居、いわば少女性と貴婦人性の共存――と分かちがたく結びつく。『ローマの休日』のヘップバーンは、まさに「上品さに無垢が和らげを与える」存在として現れ、以後のキャリア全体を規定する基準点となったのである。

イーディス・ヘッドとファッション・アイコン化

『ローマの休日』の衣装デザインはイーディス・ヘッドが担当し、同年のアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。襟元を詰めたブラウスやフレアを抑えたスカート、フラットシューズといった禁欲的シルエットによって、彼女の痩身と長い首筋がいっそう清新に立ち上がる。

ここに美容院での大胆なショートカットが重なり、のちに「ピクシーカット」の象徴へと結晶化するのである。

ちなみにヘップバーンとユベール・ド・ジバンシーの本格的協働は、翌年の『麗しのサブリナ』(1954年)から。ヘップバーン像を決定づけた“パリ流の洗練”は『サブリナ』以降の成果であり、『ローマの休日』はその前段階として“禁欲の造形”を提示したと位置付けられる。

戦後観客が夢見た“ロイヤル・ファンタジー”

1950年代という時代背景も無視できない。第二次世界大戦の爪痕がまだ残るなかで、観客は王女と庶民の恋という「身分を超えた物語」に憧れを託した。

冷戦下の不安な時代にあって、オードリー演じるアン王女は戦後の民主化や自由への希求を象徴する存在だったとも言える。ハリウッドは現実の厳しさから観客を救い出すように、この夢物語を届け、世界的に熱狂を呼び起こしたのだ。

FILMOGRAPHY