『スーパーマン・リターンズ』──9.11後のアメリカが呼び戻した“強く正しい夢”
映画『スーパーマン・リターンズ』(原題:Superman Returns/2006年)は、1978年のリチャード・ドナー版から約20年ぶりに復活したDCコミックの象徴的ヒーロー。ブライアン・シンガー監督が描くのは、9.11以降のアメリカに甦った「強く正しいアメリカ」の亡霊である。本レビューでは企画の迷走史から公開背景、ロイス・レーンやレックス・ルーサーのキャラクター造形、父性や宗教的メタファー、映像技術の逆説までを徹底考察し、現代社会におけるスーパーマン像の意義を掘り下げる。
企画倒れの亡霊から蘇ったプロジェクト
『新スーパーマン』の企画は1996年頃から水面下で進められていた。
ティム・バートンが監督候補として名前を挙げられたり、主演にニコラス・ケイジが取り沙汰されたりと、ハリウッドの夢と狂気が入り混じった構想が進行していたのだ。
もしケイジ版が実現していれば、スーパーヒーローというより“異形の救世主”に近いものとなり、今頃カルト映画史の金字塔として語り継がれていただろう。
しかし、実際には企画は頓挫の連続で、脚本家や監督が次々と交代し、製作費だけが膨らんでいく典型的な「迷走プロジェクト」の様相を呈した。
業界では日常茶飯事の企画倒れかと思われたが、2002年にサム・ライミ監督の『スパイダーマン』が全米を席巻すると、状況は一変。マーベル作品が興行的成功を収めたことで、DCを擁するワーナーが危機感を募らせたのだ。
ここで起用されたのがブライアン・シンガーである。『ユージュアル・サスペクツ』での鮮烈なデビュー、そして『X-MEN』シリーズでの成功によって、シンガーは「アメコミ映画をアートへと昇華できる監督」と見なされていた。
かくして“幻の企画”はついに蘇生を果たすが、その裏には「実現しなかったスーパーマン映画たち」という亡霊をも引きずってしまうことになる。
1978年版との決定的な違い
僕は1978年に公開された第一作『スーパーマン』の熱烈ファンである。リチャード・ドナーの軽快な演出はユーモアとシリアスを巧みに往還し、ジョン・ウィリアムズのテーマ音楽は聴く者を無条件に昂揚させた。
そしてジーン・ハックマンが演じるレックス・ルーサーは、悪党でありながらどこか憎めない人間味を持ち合わせ、観客を引き込む力があった。ここには「強く正しいアメリカ」を体現する物語があった。
しかし20年以上の時を経て、同じ英雄像をそのまま現代に持ち込むことは難しくなった。冷戦の終焉、湾岸戦争、そして9.11同時多発テロによって、アメリカはかつての「正義の象徴」ではなく「世界の警察」としての独善性を非難される存在となっていた。
シンプルな善悪二元論に基づいたヒーロー像はもはや通用せず、むしろ観客は複雑な内面を抱えたダークヒーローや、トラウマを背負った人間的ヒーローにリアリティを感じていた。
その潮流の中で登場した『スーパーマン・リターンズ』は、「あまりに健全すぎるヒーロー」を現代にどう位置づけ直すのかという難題を背負うことになったのだ。
問い直されるヒーロー像
劇中でロイス・レーンが書いた記事のタイトル――「なぜ世界はスーパーマンを必要としないのか?」。この問いは作品内の設定にとどまらず、ブライアン・シンガー監督自身に突きつけられた命題でもある。
『スーパーマンII 冒険篇』の5年後という設定で物語を構築し、ヒーロー不在の空白を描こうとした意欲は評価できる。だが、時系列やキャラクターの記憶に齟齬が多く、結果的にパラレルワールド的な印象が強まってしまった。
それでも象徴的なイメージの力は健在。スペースシャトルを救出し、メジャーリーグのスタジアムに降り立つスーパーマン。ベースボールという「アメリカの原点」に帰還するその姿は、観客の郷愁を刺激し、「アメリカ、かくあるべし」というイメージを再演してみせた。ここに、シンガー版が果たそうとした「古き良き神話の再生」という意図が端的に示されている。
宗教性と父性のモチーフ
スーパーマンは古くからキリストのメタファーと解釈されてきた。本作でも、民衆のために命を懸け、死と復活を遂げる姿は明らかに宗教的。
十字架に張り付けられたかのように宇宙空間で漂うショットなど、意識的な聖書的イメージがちりばめられている。しかし、21世紀の観客にとってその比喩はむしろ過剰で、純粋な信仰を呼び起こすことは難しい。
また、本作には「息子」という新たな要素が導入されている。これはスーパーマンを単なる神話的存在から人間的存在へ引き戻す装置であり、父性の継承や血統の物語として読むことができる。
だが、そのテーマは十分に掘り下げられず、物語の中心軸にはなり得なかった。むしろ「神話の更新を試みつつ、その試みを途中で放棄した」という印象を残している。
ロイス・レーンの二重性と女性像
ロイス・レーンの描かれ方は、1978年版と大きく異なっている。マーゴット・キダー版が体現したのは気丈でユーモラスな女性像だったが、ケイト・ボスワース版のロイスはシリアスで複雑な存在へとフルモデルチェンジ。
彼女は「スーパーマンを必要としない」と記事に書きつつ、物語の流れの中では彼の帰還を待望する存在として描かれてしまう。この二重性は本来なら現代的な女性像の揺らぎとして興味深いが、作品の中でうまく機能しているとは言いがたい。
ロイスの変化は単なるキャラクター造形の違いではなく、時代の女性観の変化を反映しているとも言える。だが、映画自体はその変化を掘り下げきれず、結果として「ヒーローの補完物」にとどまってしまった。
映像技術と悪役像の失敗
1978年版『スーパーマン』が観客に与えた最大の驚きは、「人が本当に空を飛んでいる」というリアルな錯覚。特殊効果と撮影技術の融合によって、観客はヒーロー神話を身体的に信じることができた。
しかし2006年版の飛翔シーンは、CGIによって過剰に滑らかに描かれた結果、かえって虚構性が強調され、映像の冷たさを感じさせてしまった。技術が進歩するほどに「飛ぶことの驚き」が失われるという逆説が生じている。
さらに決定的なのがレックス・ルーサーの造形だ。ケヴィン・スペーシーは名優だが、彼の演じるルーサーにはジーン・ハックマン版にあったユーモアや子供っぽさが欠落している。
スペーシーのルーサーは冷徹で人間味が薄く、単なる嫌悪の対象にとどまってしまった。寓話的悪役としての輝きを欠いたことで、物語の均衡が崩れてしまったのは痛恨である。
亡霊のヒーローとしての帰還
『スーパーマン・リターンズ』は、9.11後のアメリカにおける「強く正しいアメリカ像」を復活させようとした壮大な試みだった。しかしそれは単なるノスタルジーの再演にとどまり、現代的リアリティとの乖離を浮き彫りにする。
父性や宗教的イメージ、国家的ノスタルジーを盛り込みながらも、シンガーの提示したスーパーマン像は同時に「居場所のなさ」を証明してしまったのである。
この映画は、かつてのヒーロー神話を甦らせることに成功しながら、その神話の有効性がすでに失効していることをも示した。つまり、『スーパーマン・リターンズ』は“ヒーローの亡霊”をスクリーンに呼び戻した作品であり、アメリカの夢がもはや夢として機能しえない時代に生まれた逆説的なモニュメントなのだ。
- 原題/Superman Returns
- 製作年/2006年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/154分
- 監督/ブライアン・シンガー
- 製作/ブライアン・シンガー、ギルバート・アドラー、ジョン・ピーターズ
- 製作総指揮/クリス・リー、トーマス・タル、スコット・メドニック
- 脚本/マイケル・ドハティ、ダン・ハリス
- 撮影/ニュートン・トーマス・サイジェル
- プロダクションデザイン/ガイ・ヘンドリックス・ディアス
- 衣装デザイン/ルイーズ・ミンゲンバック
- 音楽/ジョン・オットマン
- ブランドン・ラウス
- ケビン・スペイシー
- ケイト・ボスワース
- ジェームズ・マースデン
- フランク・ランジェラ
- サム・ハンティントン
- エヴァ・マリー・セイント
- パーカー・ポージー
- カル・ペン
- ステファン・ベンダー
