2017/8/12

華麗なる賭け/ノーマン・ジュイソン

『華麗なる賭け』──知性と誘惑が交錯する大人のゲーム

『華麗なる賭け』(原題:The Thomas Crown Affair/1968年)は、ボストンの実業家トーマス・クラウン(スティーブ・マックイーン)が仲間を雇って銀行強盗を成功させ、女性保険調査員ヴィッキー・アンダーソン(フェイ・ダナウェイ)と知的な駆け引きを繰り広げるサスペンス。監督はノーマン・ジュイソン、脚本はアラン・トラストマン。音楽はミシェル・ルグランが担当し、「風のささやき」が主題歌として使われた。スタイリッシュな映像と緻密な構成のもと、富と欲望、恋と策略が交錯する物語が展開する。

ケーリー・グラントの重力ゼロ

かつてフランソワ・トリュフォーは『ヒッチコック/トリュフォー』の中で、二人の名優について言及している。ケーリー・グラントとジェームズ・スチュアート。

どちらもヒッチコック映画の顔でありながら、同じ役を演じてもまったく異なる映画になる、と。トリュフォーはこう語った。「グラントを使うときにはよりユーモアが、スチュアートを使うときにはよりエモーションが強調される」。

ヒッチコックもこれに同意し、「『知りすぎていた男』におけるスチュアートの静かな誠実さは、グラントには出せない」と述べた。ヒッチコックが描いたのは、女性の美ではなく、男性の“態度”だった。

グラントの軽やかさは、機知と余裕の象徴。スチュアートの不器用な誠実さは、道徳と感情の葛藤そのもの。ヒッチコックにとって男とは、視線の宿主であり、物語の倫理的座標だった。

彼が女性の演出で名声を得た一方で、男の演出においても精緻な心理的アーキテクチャを構築していたのである。

1955年の『泥棒成金』は、ケーリー・グラントが持つ“無重力の魅力”を極限まで活かした映画だった。彼はプレイボーイの元大泥棒ジョン・ロビーを演じ、モナコの陽光の中でグレース・ケリーと駆け引きを繰り広げる。

軽妙洒脱という言葉がこれほど似合う映画はない。グラントの存在がそのまま映画のトーンを決定していた。彼はセリフを喋るよりも、まなざしのタイミングで物語を進める。

皮肉を投げ、笑いを残し、影のように去る。その洗練されたユーモアが、ヒッチコックのサスペンスをロマンティック・コメディに変えていた。もしこの役をジェームズ・スチュアートが演じていたら、作品は“軽やかな犯罪劇”ではなく、“道徳と欲望の葛藤劇”になっていたはずだ。

ヒッチコックは、登場人物の重心を変えることで、映画の重力そのものを操作していた。『泥棒成金』の軽さは、単なる娯楽ではなく、映画そのものが飛翔するための“物理法則”だったのだ。

マックイーンという重力──『華麗なる賭け』の構造的誤差

ノーマン・ジュイソン監督の『華麗なる賭け』(1968年)は、スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイの共演で製作されたが、これは“もしジェームズ・スチュアートが『泥棒成金』を演じたら”という架空の実験のようでもある。スタイリッシュな犯罪映画でありながら、作品全体がどこか重たい。

パブロ・フェロのグラフィカルなオープニング、ミシェル・ルグランのリリカルな音楽、スプリット・スクリーンを駆使した映像演出。すべてが軽快さを目指しているのに、マックイーンの存在が重力を加えてしまうのだ。

彼の相貌には陰があり、寡黙さには死の匂いがある。軽やかに盗みを働くどころか、彼の仕草のすべてが「生きるとは何か」と問いかけてくる。マックイーンは“プレイボーイ”ではなく、“孤独な戦士”なのだ。

だからこの映画は洒落たコン・ゲームではなく、孤独の寓話に変質してしまう。ジュイソンのカメラが意図せぬ重心に引きずられていくように、マックイーンという俳優は、常に物語を“重く”してしまう宿命を背負っている。

フェイ・ダナウェイとのラブ・シーンに漂う緊張感も、軽やかなロマンスというより、ほとんど儀式的な戦いに近い。『泥棒成金』でのケーリー・グラントとグレース・ケリーが、猫と猫のゲームだったとすれば、『華麗なる賭け』の二人は虎と蛇の駆け引きである。

互いの視線がぶつかるたびに、性的エネルギーが過剰に発火する。フェイ・ダナウェイの冷ややかな美は、マックイーンの肉体的存在感に対して鏡のように作用し、映画全体を官能と緊張の混合物に変えていく。

二人の関係には“遊び”がない。すべてが真剣で、あまりに現実的だ。そのため、この映画が描く“恋愛”はコン・ゲームではなく、自己暴露の儀式となる。ヒッチコック的ユーモアの欠如。軽さの欠落。そこにこそ、この映画の“異質な美”がある。

おそらくノーマン・ジュイソン自身も、グラントの代替を求めたのではなく、“ヒーローの死角”を撮ろうとしたのだろう。マックイーンを通して、軽さの不可能性を描いた。だから『華麗なる賭け』は、洒脱な恋愛映画ではなく、“軽さを失った映画”として成立している。

マックイーンの孤独──時代が求めた重心

スティーブ・マックイーンの重さは欠点ではなく、時代の徴候である。1960年代末、アメリカ社会はすでに“ヒーローの軽さ”を信じなくなっていた。ベトナム戦争、体制への不信、個の孤立。グラントのような完璧な男は時代錯誤となり、スチュアートのような誠実さも純粋すぎた。

観客が求めたのは、沈黙し、疑い、距離を取る男。マックイーンの表情には、その“時代の倦怠”が刻まれている。彼の魅力は笑顔ではなく沈黙に宿る。

『華麗なる賭け』は、そんな彼の沈黙を“都会的クール”に置き換えようとしたが、結果的に映画自体が沈黙に沈んでしまった。ヒッチコックがグラントを用いて“笑いの軽業”を作り上げたように、ジュイソンはマックイーンを使って“無言の重量”を刻み込んだのである。

軽やかさを拒むその身体性が、同時にこの映画の存在理由でもある。『華麗なる賭け』はミスキャストではなく、“時代のキャスティング”だったと言うべきだ。

それでもやはり、この映画を観ると、ケーリー・グラントの不在が痛い。彼の微笑が一つ入るだけで、映画はたちまち重力から解放されるだろう。

マックイーンが生真面目に抱え込んだ存在の重さを、グラントならウィットと皮肉で受け流してしまう。だが、そうした“軽やかな男性像”はすでに過去のものになっていた。

軽さが時代に裏切られた後、残されたのは重さだけ。『華麗なる賭け』は、その過渡期を象徴する映画である。華やかで、洗練されていて、それでいて何かが重い。軽さの仮面をかぶった重力の映画。

もしトリュフォーがこの映画を論じたなら、こう言っただろう。「ここでは、ジェームズ・スチュアートがケーリー・グラントの仮面をかぶっている」。そしてそれは、おそらく20世紀後半のアメリカ映画における“男性の運命”そのものだったのだ。

DATA
  • 原題/The Thomas Crown Affair
  • 製作年/1968年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/102分
STAFF
  • 監督/ノーマン・ジュイソン
  • 製作/ノーマン・ジュイソン
  • 脚本/アラン・R・トラストマン
  • 撮影/ハスケル・ウェクスラー
  • 編集/ハル・アシュビー
  • 美術/エドワード・G・ボイル
  • 音楽/ミシェル・ルグラン
  • 衣装/セアドラ・ヴァン・ランクル
CAST
  • スティーヴ・マックィーン
  • フェイ・ダナウェイ
  • ポール・バーク
  • ジャック・ウェストン
  • ビフ・マクガイア
  • アディソン・パウエル
  • アストリッド・ヒーリン
  • ゴードン・ピンセント
  • ヤフェット・コットー
  • サム・メルヴィル