2017/10/2

デート・ウィズ・ドリュー/ブライアン・ハーズリンガー、ジョン・ガン、 ブレット・ウィン

『デート・ウィズ・ドリュー』──なぜ彼はドリュー・バリモアを追い続けたのか?

『デート・ウィズ・ドリュー』(2005年)は、映画業界で燻る青年ブライアンが、憧れの女優ドリュー・バリモアとのデートを目指して自らの挑戦を記録するドキュメンタリーである。クイズ番組の賞金1100ドルとビデオカメラを手に、30日間の計画を敢行する彼の姿は、夢を信じ続けるアメリカ人の原型を体現する。滑稽で痛切な挑戦が、イノセンスの再生を映し出す。

哀しきオーディナリー・ライフから始まる“神話”

映画業界に身を置きながらも、金なし・仕事なし・コネなし・彼女なし(ただし体毛は濃い目)という悲惨な四重苦を背負う青年ブライアン。

ある日彼は、クイズ番組で賞金1100ドルを獲得する。最後の問題の答えが、彼が幼い頃から憧れ続けてきた「ドリュー・バリモア」だった。

その偶然を“運命”と信じ込んだ彼は、ドリューとのデートを実現するまでの30日間をビデオカメラで記録しようと決意。撮影機材はベストバイで購入し、返品期限内にすべてを完結させるという無謀な挑戦。だが、その無茶さこそがアメリカ映画の精神を象徴している。

『デート・ウィズ・ドリュー』(2005年)は、個人の愚かさと純粋さがそのまま国家のエネルギーへと変換されていく過程を、痛々しいほどに映し出したドキュメンタリーである。

ブライアンにとって「ドリューとデートする」という行為は恋愛ではなく、むしろ自己再生の儀式だ。停滞した人生を跳躍させるための通過儀礼であり、“アメリカ人であること”の証明行為でもあるのだ。

消えゆくイノセンス──“映画少年”の亡霊たち

ブライアンの突拍子もない計画を聞いた友人の映画監督は、「アメリカ人の総白痴化もここまで来たか!」と呆れ果てる。しかし、そこで終わらないのがアメリカの強さ。西欧的な知性が嘲笑する“未成熟さ”こそが、アメリカの文化的ドライブを生み出してきた原動力なのだ。

知的に洗練されすぎた社会では、人は決してドリュー・バリモアに会うための映画を撮ろうなどと思いつかない。理性の外部にこそ、アメリカの想像力は息づいている。

この映画を支えているのは、愚かで、直情的で、しかしどこまでも誠実なエネルギーだ。ブライアンは自分の夢を笑い飛ばすことを知らない。彼にとって現実とは、信じる者の手で構築されるべき“可能世界”だ。

その意味で彼は『E.T.』や『グーニーズ』の少年たちと同じ、古き良きアメリカン・イノセンスの末裔だ。現実を疑わないことが、彼の最大の才能であり、最大の滑稽さでもある。

ブライアンが尊敬してやまないのはスティーヴン・スピルバーグ。『グーニーズ』のような冒険映画を語る彼の瞳は、まるで1980年代のアメリカが持っていた純真さの再現装置のように輝く。

彼は子供のころに抱いた夢の続きを、成人した今でも生きている。だが、それは同時に“過去のアメリカ”への執着でもある。産業化され、シニカルに成熟したハリウッドにおいて、ブライアンのような人物はもはや絶滅危惧種だ。

彼が「ドリューに会う」という行為は、失われた時代のアメリカ的価値――希望、純粋、成功の物語――を蘇らせようとする儀式的パフォーマンスである。

彼の行動を嘲笑う者たちは、その無垢さを理解できない。だが、彼を見つめる観客たちは知っている。これは一人のオタク青年の狂気ではなく、イノセンスの復権の物語なのだ。ブライアンは夢を信じることができる最後のアメリカ人である。

ドリュー・バリモアという「アメリカ」

7歳で『E.T.』(1982年)に出演し、9歳で喫煙、10歳でマリファナ、12歳でコカイン。ドリュー・バリモアの人生は、イノセンスの獲得と喪失を極端に往復する軌跡そのものだ。

早熟な成功と早すぎる破滅。そこからの復帰と再生。『チャーリーズ・エンジェル』(2000年)でプロデューサーとしてカムバックを果たすまでの道程は、まるでアメリカという国家の自画像のようでもある。自由と放縦、堕落と再生――その繰り返し。

ブライアンが10歳の頃から彼女を信じ続けたこと、そして麻薬に溺れ、B級映画に転がり落ちた時期さえも彼は見捨てなかったこと。

この事実こそが彼のイノセンスを保証する。ドリューの光と闇をすべて抱擁したその誠実さが、映画の強度を支えている。彼女はブライアンにとっての“救済の象徴”であると同時に、アメリカ人にとっての“信仰の対象”でもある。

ブライアンがドリューを追い続ける姿は、かつてのアメリカが自らの夢を追い続けた姿のメタファーなのだ。

『デート・ウィズ・ドリュー』は、現代アメリカが失ってしまった“信じる力”を、滑稽なまでに純粋な形で再現してみせる映画である。

ブライアンの姿に観客が涙するのは、彼がドリューを追うからではなく、彼がまだ「夢を信じられる人間」であるからだ。彼はフォレスト・ガンプの再来であり、合理性に支配された時代における最後のロマン主義者である。

この作品に漂うアーリー’80sの匂い――スピルバーグ映画のような希望の粒子、光に満ちた郷愁――は、アメリカという国がかつて“子供の国”だった時代の残り香だ。『デート・ウィズ・ドリュー』はその過去をノスタルジーとしてではなく、信仰として再演する。

ブライアンにとって、ドリューは女神であり、映画は祈りの手段だ。彼がカメラを回す限り、アメリカの夢はまだ滅びていない。

もはやこの映画を笑うことは、アメリカという幻想を笑うことと同義である。ブライアンのイノセンスは、もはや個人のものではない。アメリカそのものが、彼の中に宿っているのだ。

DATA
  • 原題/Date With Drew
  • 製作年/2005年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/90分
STAFF
  • 監督/ブライアン・ハーズリンガー、ジョン・ガン、ブレット・ウィン
  • 製作/ブライアン・ハーズリンガー、ジョン・ガン、ブレット・ウィン
  • 編集/ブライアン・ハーズリンガー、ジョン・ガン、ブレット・ウィン
CAST
  • ブライアン・ハーズリンガー
  • ドリュー・バリモア
  • エリック・ロバーツ
  • コリー・フェルドマン