『ゲド戦記』──父を殺すための通過儀礼
『ゲド戦記』(2006年)は、宮崎駿の長男・宮崎吾朗が初めて監督を務めた長編アニメーションである。アーシュラ・K・ル・グウィン原作のファンタジーをもとに、父と子の断絶、継承、葛藤を映し出した。公開当時は厳しい批判にさらされたが、その内実には「語れない者の物語」という静かな主題が潜んでいる。
ジブリ批判の嵐の中で
ネットに吹き荒れる罵詈雑言の嵐を承知しながらも、「スタジオジブリ作品を観ることは己の義務」と割り切って劇場へ足を運んできました、『ゲド戦記』。
公開当時、その評価はほとんど一方的だった。物語が観念的で、アニメとしての躍動感に欠ける。原作のスケールを咀嚼しきれていない。作画の完成度も低い。そうした批判のリストは、むしろ呪詛のように繰り返された。
だが、僕はその喧噪の中で、誰も見ようとしなかったもう一つの「現実」を見ていた気がする。あの映画は、技術的な欠陥を超えて、もっと深い領域──“父と子の物語”そのものを引き受けた作品だったのではないか。
宮崎親子の“断絶”から始まった映画
『ゲド戦記』の原作は、アーシュラ・K・ル・グウィンによるファンタジー文学の金字塔である。かつて宮崎駿自身が映画化を望み、断られたという逸話は有名だ。
時を経て、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞を獲得し、ベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受けたのち、アーシュラはついにその夢を託す。「ミスター・ミヤザキなら」と。
だが現実は皮肉な展開を見せる。『ハウルの動く城』の製作で身動きの取れない父に代わり、メガホンを握ったのは、まだ一度もアニメーションを監督したことのない息子・宮崎吾朗だったのだ。この交代劇そのものが、映画の主題を決定づけた。
アーシュラが一瞬「ミヤザキ違いじゃないの?」と呟いたとしても、驚くには値しない。『ゲド戦記』は、制作段階からすでに“父と子の断絶”を物語っていたのだ。
期待と失望──観客という共同幻想
『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のような傑作を信じて劇場に向かった観客たちは、結局、自らの幻想に裏切られたのだ。処女作の新人監督に、宮崎駿級の完成度を求めるという無意識の傲慢。それこそが、作品への不当な期待を生み出した。
『ゲド戦記』は、父の影を消すことも、完全に模倣することもできなかった。だが、それは敗北ではない。むしろ、“自分には何も語るべき物語がない”という出発点を、誠実に受け止めた結果ではないだろうか。
作品に流れる沈黙や間延び、感情の欠落。それらは未熟さではなく、“語れなさ”そのものの証明だ。ファンタジー世界を描こうとしながら、どこか現実的で、慎重で、まるで安全策ばかりを選び取るような演出。そこに、吾朗という作家のリアリズムがある。
「語れない者」の映画──欠落の構造
確かに『ゲド戦記』には、宮崎駿作品に見られるような緻密なアクションの設計も、世界を駆け抜けるようなダイナミズムもない。人物造形は曖昧で、構成は緩慢だ。だが、吾朗が安易に「ハヤオ的文法」を模倣しなかったことは、むしろ潔い選択だったのではないか。
長年、ジブリ美術館の館長を務めていた男にとって、アニメーションは理論ではなく運用の領域にあったはずだ。アニメーターとしての腕を欠いた彼は、“動きの映画”ではなく“内省の映画”を選んだ。
作画的な粗さを抱えながらも、一定の完成度に達したのは、作家的感情を抑え、商業作品としての骨格を保とうとする冷静な計算の賜物である。もし本作が私的な自己表現として作られていたなら、さらに悲惨な結果を招いていたに違いない。
父殺しの寓話──ジブリという神話の継承
『ゲド戦記』の最大の主題は、作中に描かれる“父殺し”のエピソードに集約される。少年アレンが父を殺め、世界の均衡を失う物語は、そのまま吾朗自身の心理劇でもある。
明白なエディプス・コンプレックスの投影。それを堂々とスクリーンに提示できたのは、プロデューサー鈴木敏夫の助言があったからといわれるが、本人の無意識的欲望がそこに潜んでいたことは明らかだ。父・駿の死を物語ることが、息子・吾朗にとっての“作家としての誕生”だった。
彼は、父の神話を完全には殺せなかった。だが、殺そうと試みた。その試みの痕跡こそが、『ゲド戦記』の真の価値である。映画は常に、作り手の自己神話と社会的神話の交錯点で生まれる。『ゲド戦記』は、その交差点に立たされた一人の息子の記録なのだ。
「世紀の駄作」を免れたという成功
この作品に対する僕の評価は明快だ。『ゲド戦記』は「世紀の駄作になることを免れた作品」である。マイナス200点の映画が、辛うじてマイナス2点まで回復した──そう表現すれば正確だろうか。
「いやいや、結局マイナスなのかよ!結局つまんねえのかよ!結局駄作なんじゃねえか!」と、安易に“失敗”のレッテルを貼ってはならない(いや、貼ってもいいんですが)。
この映画は、技術や物語の完成度で語るべきものではない。むしろ本作は、“父の影を引き受けたまま立ち上がる”という、通過儀礼のドキュメントと見るべきなのだ。
『映画は父を殺すためにある: 通過儀礼という見方』という島田裕巳の著作があるが、まさしく『ゲド戦記』はその命題を実践した稀有な例だ。吾朗は自分の声を持たないまま、それでも声を発した。その矛盾の痛みこそが、この映画の唯一の真実である。
沈黙という継承
父が築いた神話の塔の影で、息子は静かに立ち尽くす。語られなかった言葉、描かれなかった動き、鳴らなかった音。それらの“欠落”の総体が、『ゲド戦記』という映画の核心だ。そこには、敗北ではなく、継承のかたちがある。
父を越えられないことを引き受けるという、最も誠実な反逆。ジブリの系譜において、この作品ほど「父と子」の物語を文字通りに描いた映画は他にない。だから私は、この映画を「未完成の祈り」として記憶している。
完成度ではなく、勇気によって成り立つ映画。──そう、『ゲド戦記』は“駄作”ではなく、“父殺しの記録”として観るべき作品なのだ。
- 製作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/116分
- 監督/宮崎吾朗
- プロデューサー/鈴木敏夫
- 原作/アーシュラ・K・ル=グウィン
- 原案/宮崎駿
- 脚本/宮崎吾朗、丹羽圭子
- 美術監督/武重洋二
- 音楽/寺嶋民哉
- デジタル作画監督/片塰満則
- 映像演出/奥井敦
- 効果/笠松広司
- 岡田准一
- 手嶌葵
- 田中裕子
- 小林薫
- 夏川結衣
- 香川照之
- 内藤剛志
- 倍賞美津子
- 風吹ジュン
- 菅原文太
