空気人形(2009)
映画考察・解説・レビュー
『空気人形』(2009年)は、ラブドールとして生きていた“空気人形”が、ある日自我を得て人間社会へと踏み出す物語。持ち主のもとを離れ、レンタルビデオ店で働き始めた彼女は、人間との出会いを通して“他者を満たす”ことの意味を学んでいく。監督・脚本は是枝裕和、主演はペ・ドゥナ。原作は業田良家による漫画『ゴーダ哲学堂 空気人形』。第62回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で上映され、アジア・フィルム・アワード最優秀女優賞など国内外で高い評価を受けた。
「息」を吹き込むという支配──エロスの正体とピグマリオンの罪
エロい!エロい!『空気人形』(2009年)というフィルムは、とにかくエロい。
ARATAがペ・ドゥナの腹に唇をあて、空気を吹き込むあの瞬間。あれは映画史における最も官能的なラブシーンの一つだろう。そして同時に、戦慄するほど残酷な儀式だ。
是枝裕和監督が、業田良家の短編漫画『ゴーダ哲学堂 空気人形』を映画化した本作は、言うなれば現代版『ピノキオ』。だが、そこに描かれているのは夢やファンタジーではなく、都市生活者が抱える空虚という名の病理だ。
特筆すべきは、本作におけるエロスの定義。エロスとは本来、身体的欲望ではなく、その関係性にある。優越と劣等、支配と従属、与える者と受け取る者。その不均衡な構図のなかにこそ、エロスは潜む。
主人公の空気人形(ペ・ドゥナ)は、性処理の道具として作られたダッチワイフ。彼女の体は空っぽで、持ち主の男が空気入れで息を吹き込むことで、初めてパンと張り詰め、疑似的な生命を得る。「抜けば死に、入れれば蘇る」。この反復運動こそが、本作が提示するエロスの正体だ。
純(ARATA)が彼女に息を吹き込む行為は、他者の空虚を自分の生命力で満たし、生殺与奪の権を握るという、究極の支配。愛とは対等な交換ではなく、どちらかが空っぽになり、どちらかが満たすという、不可逆的な権力構造を含んでいるのだから。
是枝監督は、ラブドールという極端なモチーフを使うことで、人間の性愛に潜む「所有欲」と「依存」のメカニズムを、冷徹に暴き出す。
ペ・ドゥナという聖なるプラスチック
この映画が成立したのは、ひとえに主演のペ・ドゥナという女優の、卓越した身体性のおかげだ。是枝監督は『リンダ リンダ リンダ』(2005年)や『グエムル-漢江の怪物-』(2006年)での彼女を見て惚れ込み、熱烈なラブコールを送ったという。
瞬きの回数を極限まで減らし、関節の動きに微妙な違和感を持たせ、歩き方すら学習していくプロセスを演じることで、彼女は「心を持ってしまった人形」を見事に体現してみせた。
モデル出身だけあって、171センチの肢体は均整が取れているが、そこにセクシャリティーはほとんど感じられない。あるのは、ビニール特有の透明感と、無機質な美しさだ。その姿は性的な視線を挑発するどころか、むしろ無力化してしまうほどの聖性を帯びている。
ペ・ドゥナは、自らの肉体をオブジェとして差し出し、そこに魂が宿るプロセスを、ドキュメンタリーのように見せつける。初めて心を持ち、街の光や風に触れた時の、幼児のように無垢な表情。
だが、その純粋さが悲劇を呼ぶ。彼女は所詮「燃えないゴミ」として捨てられる運命にある代用品だ。人間になろうとすればするほど、彼女の作り物としての悲哀が浮き彫りになる。
ペ・ドゥナは、この難役を、テクニックではなく、存在そのものの強度でねじ伏せてしまった。彼女は、日本映画史に舞い降りた、最も哀しい天使である。
女性たちの不在と、死体への羨望
この美しい寓話には決定的な歪みが存在する。それは、物語の中心にいるはずの、生身の女性たちの不在と排除だ。
この映画に登場する女性たちは、過食症の少女(星野真里)、自首を繰り返す老婆(富司純子)、孤独なOL(余貴美子)といった、社会の周縁で喘ぐ存在ばかり。彼女たちは物語に関与することなく、ただ疎外されたノイズとして通り過ぎていく。
なぜならそれは、この世界が「空気人形」という、老いず、排泄せず、何も要求しない理想的な客体を中心に回っているからだ。性を介しても、労働を通しても、生身の彼女たちは自分の空洞を埋めることができない。
セックスは救済ではなく、単なる生存確認の痛みとしてしか機能しない。是枝裕和は、このあまりにも救いのない現実を、台湾の撮影監督リー・ピンビンのアンバーがかった映像美で包み込むことで、絶望的なロマンチシズムへと昇華させてしまっている。
その危うさが最も露呈するのが、星野真里が演じる過食症の少女が、ゴミ集積所に捨てられた空気人形を見つけるシーンだ。生ゴミにまみれた残骸を見て、彼女は思わず「きれい……」と呟く。
生きて苦しむ女性が、物言わぬ美しい廃棄物に美を見出す。それは、主体としての苦痛から解放され、完全なる客体(モノ)になりたいという、死への羨望に他ならない。
『空気人形』は、人が他者に触れること、愛することの不完全さを暴きながら、最終的には「人間になることの絶望」と「物であることの至福」を天秤にかける、極めてシニカルで猛毒を含んだ現代批評なのだ。
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