『黒い十人の女』(1961)
映画考察・解説・レビュー
『黒い十人の女』(1961年)は、市川崑監督による“スタイルの映画”。十人の女性と一人の男の関係を通じて、愛と欲望のモラルを脱色し、感情の構図化を極限まで推し進めた。砂漠のシーンに象徴される幾何学的構成と、山本富士子の無表情な美が、冷たい秩序としてのモダニズムを体現する。
渋谷系がひれ伏した市川崑の映像ドラッグ
テレビという新たな怪物が産声を上げ、映画産業がその絶対的な王座を脅かされ始めた1960年代初頭。その激動の真っ只中で、稀代のスタイリスト市川崑はとんでもない劇薬、『黒い十人の女』(1961年)を世に放った。ピチカート・ファイヴの小西康陽が、この映画を渋谷系の原典として熱狂的に崇拝したエピソードはあまりにも有名。
この映画には、日本映画特有の汗臭い情念や泥臭さなど1ミリも存在しない。画面を完全に支配しているのは、圧倒的なまでのグラフィックとしての視覚的快楽である。
スクリーンを刮目して見てほしい。そこに映し出されているのは、生々しい血の通った人間というよりも、完璧に計算し尽くされた美しいオブジェである。
市川崑のカメラは、まるで一流の広告写真家が高級ブランドの商品を撮影するかのように、女優たちを画面内に冷徹に配置していく。極端な左右非対称の構図。意図的にガツンと空けられた不気味な余白。そして白と黒の強烈なコントラストが織りなす極上のグラデーション。
これらすべてが異常なまでにモダンで、洗練されていて、身震いするほどに冷酷なのだ。ここにあるのは、泥臭い人間性を徹底的に剥ぎ取った先にある極北の美学である。
不倫モノといえば、普通は愛だの恋だの嫉妬の炎がメラメラと燃え上がるのが相場。しかし天才脚本家である和田夏十と市川崑の恐るべき夫婦の共犯関係は、そんなベタで陳腐な感情の爆発を一切許さない。十人の女たちが織りなすドロドロとした愛憎劇さえも、この映画では美しい幾何学模様の一部として冷酷に処理されてしまう。
感情が爆発する瞬間でさえ、それは激情としてではなく、ひたすらカッコいい構図として消費される。これはもはや、感情の死を究極のデザインとして記録した、美しきホラー映画なのである。
虚無のブラックホールと砂漠に描かれた幾何学模様
このスタイリッシュな地獄のど真ん中に鎮座しているのが、船越英二演じるテレビ局のプロデューサー倉島英介だ。ああ、この時の船越英二の、なんと軽薄で、なんとチャーミングなことか!
彼が演じる倉島は、本妻である山本富士子を筆頭に、次から次へと愛人を作りまくる稀代のプレイボーイ。だが驚くべきことに、そこにオスとしての生々しい獣性や性欲の匂いは皆無だ。彼はただプロデューサーという時代の記号を演じ、恋人という役割を淡々とこなしているに過ぎない。
カラーテレビが一般家庭に普及し、広告代理店が日本経済を猛烈に回し始めたこの時代、テレビプロデューサーは間違いなく時代の寵児だった。だが市川崑はあえてその輝かしい象徴を、中身がすっからかんの空っぽの容れ物としてスクリーンに描き出す。
カツ丼を無造作にかっこみ、気だるげに煙草の煙をふかし、受話器片手に愛人に適当な嘘を吐き続ける。彼は汗水垂らして働く男ではなく、働くフリをして高度経済成長期の空気をふわふわと浮遊するだけの男なのだ。
その圧倒的な実体のなさ、その虚無性こそが、この映画の巨大なブラックホールとして機能している。十人の女たちは、この質量を全く持たないブラックホールの周りをグルグルと回り続ける、哀れな惑星だ。彼女たちは倉島という男を愛しているように見えて、実はその得体の知れない空虚さに、吸い寄せられているだけなのかもしれない。
圧巻なのは、女たちが砂漠のような荒れ地で倉島を取り囲むクライマックスのシーン。荒涼とした砂丘に、黒い衣装をまとった女たちが点々と不規則に配置される圧倒的な抽象空間。
その異様な光景は、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960年)で見せたあの愛の不毛と疎外感を、極東の島国で極限までポップに再構築したかのようだ。
岸惠子が、事故で激しく炎上する車を一瞥もくれずにクールに走り去る場面を思い出してほしい。ここには人間的な動揺や道徳的な葛藤といったノイズは一切存在しない。
あるのは情念を完全に放棄し、スタイルという神に殉じた人間たちの、凍りつくような美しさだけだ。市川崑は女性たちの怒りや悲しみさえも完全に無音化し、一枚の完璧な絵画として永遠に定着させてしまったのである。
山本富士子という名の美しい絶望と映像の暴力
この狂気とも言える映像美学における最大の共犯者は、間違いなく本妻を演じた山本富士子である。彼女が口にする「〜でざぁす」というあの独特すぎる言葉遣いは、一度聞いたら絶対に耳から離れない。
上品な京言葉のようでありながら、どこか完全に人を食ったような、現実感を致命的に欠いた不気味な響き。彼女がその言葉を発するたび、映画の中の空気は真空パックされたように完全に静止してしまう。
山本富士子の表情には、いわゆる分かりやすい人間的な感情が一切浮かび上がらない。能面のように冷酷で、しかしこの世のものとは思えないほど恐ろしく美しいその顔面は、この映画が標榜する虚構のモラルそのものだ。
市川崑の演出は、登場人物に対する道徳的な審判を徹底的に拒絶する。不倫をする女たちは倫理的に罪深いが、劇中で誰も明確な罰を受けない。
男は果てしなく愚かで軽薄だが、社会的に断罪されることもないのだ。善悪の彼岸なんていう大層な場所ではない。もっとドライで即物的な、純粋な映像の論理だけが、そこには存在している。
照明は白と黒のコントラストを極端なまでに強調し、登場人物たちの輪郭を泥臭い現実世界から鋭利に切り離していく。美術セットは生活感を極限まで削ぎ落とされ、画面には常に居心地の悪い前衛的な余白が漂い続ける。
これは巨匠・小津安二郎が積み上げた日本映画の間の美学を正統に継承しつつ、後に鈴木清順が爆発させることになる映像の暴力性を完璧に先取りした、奇跡のハイブリッドだ。
『黒い十人の女』という作品において、愛とは巨大な空洞に過ぎない。男は中身のない絶望的な虚無であり、女たちはその虚無に対して自らの果てしない欲望を投影する。
だが市川崑はその救いようのない絶望の上に、とてつもなく強固で美しいデザインの城を築き上げた。愛が完全にぶっ壊れた廃墟の上に静かにそびえ立つ、冷たく光る摩天楼のような映画。それこそがこの作品の本当の正体である。
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