2018/1/29

『LOFT ロフト』(2006)黒沢清はホラー×恋愛で何を暴こうとしたのか?

『LOFT ロフト』(2006)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

『LOFT』(2006年)は、黒沢清監督がホラーと恋愛という相反するジャンルを融合させた異色作。中谷美紀演じる作家と、豊川悦司演じる考古学者が廃屋で出会い、禁断の関係へと沈み込む。古代ミイラをめぐる恐怖と恋慕の狭間で、人間の孤独と欲望が静かに蠢く。黒沢清の映像美と心理描写が、ホラーの定型を超えて“愛の残酷さ”を映し出す。

黒沢清が仕掛けた「恋愛×ホラー」の融合

黒沢清という男は、つくづく「ジャンルの奴隷」であることを楽しんでいる。だが、勘違いしてはいけない。彼は隷属しているふりをして、その実、ジャンルの内側から爆弾を仕掛けるテロリストなのだ!その最も過激で、最も「確信犯」的な犯行声明が、この『LOFT ロフト』(2005年)である。

これまでの黒沢映画といえば、画面を支配するあのアンダー気味のブルーグレイがお決まりだった。観客はあの冷徹な色彩を見るだけで「あ、死が来る」と身構えたものだ。

ところがこの『LOFT』の幕が開いた瞬間、目に飛び込んでくるのは、これまでの彼なら絶対に選ばなかったであろう、草木萌ゆる深緑。撮影の芦澤明子と組んだこの色彩設計の変貌、これこそが黒沢が恋愛映画というジャンルに、真っ向から足を踏み入れた証拠だろう。

中谷美紀がまとう衣服、西島秀俊の赤いシャツ、そして画面を不気味に、しかし鮮烈に横切る黄色いゴミ袋。感情の昂ぶりを色彩に託すという、往年のハリウッド・メロドラマのような手法を、黒沢はあえてホラーの枠組みの中で演じてみせる。

Jホラーの帝王が放つメタ的な冷笑

驚くべきは色彩だけではない。恐怖演出において、黒沢は自身の持ちネタをすべてテーブルの上にぶちまけてみせた。鏡を使ったトリッキーな構図、平衡感覚を狂わせる斜めのカメラワーク、そして極めつけは、あの中川信夫を彷彿とさせる“ヒュードロドロ”系のベタなBGM!

東海道四谷怪談
中川信夫

Jホラーを世界に知らしめた張本人が、今さら東海道四谷怪談のような古典的ガジェットを持ち出す。これはもはや、セルフ・パロディを通り越した批評だ。「お前ら、こういうのがホラーなんだろ?」という黒沢の不敵な笑みが、あのチープで恐ろしい旋律の裏から聞こえてくるようだ。

そして、物語が「恋愛」と「ホラー」の境界線をドロドロに溶かし始める後半パート。豊川悦司演じる小説家のオブセッションが暴走し、ミイラと対峙するあの瞬間、映画史上屈指の「メタ発言」が飛び出す。

「動けるんだったら最初からそうしろ!」

このセリフこそが本作の正体だ。ホラー映画における「いつ動くかわからない恐怖」という観客との暗黙の契約を、映画の登場人物自らがブチ壊す。

ここで『LOFT』は単なる映画であることを辞め、ジャンルそのものをあざ笑う「メタ映画」へと変貌を遂げる。黒沢清は、自ら築き上げたJホラーの金字塔を、自らの手で叩き壊して見せたのだ。なんと贅沢で、なんと恐ろしい振る舞いか。

越境する身体:中谷美紀と豊川悦司が体現する、ジャンルの不純

この「ジャンルの混濁」という無理難題を成立させたのは、他でもない、中谷美紀と豊川悦司という二人の怪物俳優だ。

中谷美紀の、画面から透けて消えてしまいそうな透明感。それと対極をなす、豊川悦司の重苦しく、泥をこねくり回すような執念。この“消え入りそうな女”と“執着する男”のコントラストが、恋愛映画としての情緒とホラーとしての実体感を見事に繋ぎ止めている。

彼らがそこにいるだけで、画面は「愛の物語」にも「死の物語」にもなり得る。その両義性こそが、本作を単なる「変な映画」に終わらせず、至高のシネマ・エクスペリエンスへと昇華させているのだ。

『LOFT』を観るということは、黒沢清という巨大な知性が仕掛けた、ジャンルの迷宮に迷い込むということだ。彼はルールを守るふりをして、そのルール自体を解体し、観客に「映画を見ることの根源的な違和感」を突きつける。

ジャンルを踏襲しつつ、それを批評的に殺す。この二重構造の果てに、私たちは「映画そのものの正体」を目撃することになるのである。

DATA
STAFF
CAST
FILMOGRAPHY