『ウィンブルドン』(2004)
映画考察・解説・レビュー
映画『ウィンブルドン』(2004年)は、恋とテニスを通して再び“生きる身体”を取り戻す男の物語。落ち目のベテラン選手ピーター(ポール・ベタニー)が、若手スターのリジー(キルステン・ダンスト)と恋に落ち、失われた情熱を取り戻していく。ワーキング・タイトル印の知的ユーモアと英国的リアリズムが融合した、成熟のロマンティック・スポーツ映画。
ナブラチロワの肉体、そしてテニスの異常な強靭さ
実はワタクシ、テニスは意外と好きなのである。NHKで放送していたウィンブルドン中継、昔はよく観ていたものだ。
あの頃はナブラチロワが6連覇を果たした全盛期。女性離れした筋肉、球速、俊敏なネットプレー。彼女を初めて見たとき、「この人は絶対フィリピンあたりで性転換手術を受けた元男性だ」と信じていた。それくらい、当時の女子スポーツの常識をぶち壊す存在だったのだ。
38歳で一度引退しながら、44歳で全米オープン・ダブルスに復帰し、50歳で混合ダブルス優勝――常識では説明できないほどの身体的持久力。彼女の肉体はもはや“アスリート”を超えて“進化した種”の域である。
彼女の存在は、ジェンダーや年齢という概念を越えて、“競技”という人間の限界そのものを問い直していた。だからこそ、31歳の落ち目プレーヤー・ピーター(ポール・ベタニー)の苦悩は、ナブラチロワの伝説と対照的に描かれる。すなわち「老いとは、敗北ではなく変化の速度に追いつけなくなること」である。
ポール・ベタニーという俳優の“異様な清潔感”
ピーターを演じるのは、イギリス・ロンドン出身の俳優ポール・ベタニー。
『ダ・ヴィンチ・コード』(2005年)の拷問僧シラス、『ドッグヴィル』(2003年)の理想主義者トム、『ビューティフル・マインド』(2001年)の幻影的ルームメイト――彼の出演作には常に“狂気の理性”が潜んでいる。にもかかわらず『ウィンブルドン』では、それとはまるで正反対の“柔らかい人間”。これが実に興味深い。
ベタニーの魅力は、その知的な顔立ちに宿る不穏さにある。理性的でありながら、どこか爆発寸前の緊張感を抱えている。その俳優が「もう一度夢を信じたい」と思う男を演じる――この時点で、映画はすでに比喩として完成している。ピーターがテニスコートに立つ姿は、ベタニー自身が“狂気なき人間”を演じようとする俳優的試みのメタファーなのだ。
つまり『ウィンブルドン』とは、テニス映画であると同時に、ポール・ベタニーという俳優の再定義映画でもある。
セックスで勝ち上がるロマンチック・コメディ
物語は、落ち目のベテラン選手ピーターが、若手スターのリジー・ブラッドベリー(キルステン・ダンスト)と恋に落ちるところから始まる。二人の出会いは唐突で、恋の成就も性急。
だがここで重要なのは、恋愛が勝利へのモチベーションではなく、“身体の再覚醒”の象徴として描かれている点だ。ピーターは恋を通して“肉体を取り戻す”。これは年齢と挫折によって“観念化した男”が再び「動く身体」になるための儀式なのである。
恋とテニス――どちらもリズム、タイミング、呼吸の競技だ。ラブ(LOVE)という得点単語も偶然ではない。ラリーの呼吸とセックスの呼吸が同じテンポで描かれるのは、極めて意図的だ。恋愛というエネルギーが、競技のモチベーションに直結するという馬鹿馬鹿しい設定の裏には、スポーツそのものの“官能性”がある。
つまり『ウィンブルドン』は、“肉体の物語”としては極めて誠実なのだ。
キルステン・ダンストという“可愛げな異物”
キルステン・ダンストほど、「可愛い」と「不気味」を同時に持つ女優は珍しい。彼女の顔はいつも“微妙”だ。笑えば無邪気だが、黙ると冷酷。『ウィンブルドン』のリジーは、そんな彼女のアンビバレンスが見事に活かされた役である。彼女は単なる恋愛の対象ではなく、ピーターを変化させる媒介者=シャーマン的存在なのだ。
彼女の奔放さは破滅の香りを漂わせる。リジーは恋を求めながら、同時にそれを“自分の武器”として利用している。ここには、現代の女性アスリート像――すなわち“フェミニズム以前の肉体的自立”が宿っている。
彼女は恋愛によって支配されない。恋も試合も自ら選び取る。その自立性こそが、映画を陳腐なメロドラマから救っているのだ。
ワーキング・タイトル印の英国式ロマンチック・リアリズム
『ノッティングヒルの恋人』(1999年)や『ラブ・アクチュアリー』(2003年)で知られるワーキング・タイトル・フィルムズは、90年代以降のイギリス的ロマンチック・リアリズムの代名詞となった。
彼らの作品に共通するのは、「理性で制御された感情表現」と「日常の空気感を残す撮影美学」だ。『ウィンブルドン』も例外ではなく、光のコントラストが弱い曇天のロンドンを基調とし、派手な色彩を排した撮影設計が特徴的。これが、恋愛映画にありがちな甘さを打ち消している。
監督のリチャード・ロンクレインは、恋愛の“瞬発力”ではなく、“余韻”を描くタイプ。カメラは人物の後ろ姿を長く追い、台詞のない間を大切にする。まるでウィンブルドンの芝生が、時間そのものを吸い取っていくような静謐さ。
ロマンチック・コメディでありながら、どこか「失われゆく青春のメランコリー」を漂わせている。これが、アメリカ製ロマコメとの決定的な違いである。
VFXがもたらすテニスのダイナミズム
本作を特筆すべきは、スポーツ映画としての完成度の高さだ。VFXを駆使してボールの軌道やスピードを精密に再現し、観客を“選手の視点”に没入させる。
CGIが多用されているにもかかわらず、映像にはリアリティがあるのは、カメラの重心を常に“芝生の高さ”に置いているからだ。観客席からの俯瞰ではなく、コートレベルでの臨場感。ここに映画の“身体感覚”が宿る。
クライマックスの決勝戦では、試合の呼吸が完全に“映画の呼吸”と同期する。ボールが打ち返されるたびに、ピーターの心が揺れ、観客の鼓動も同期していく。
この構造こそ、スポーツ映画の究極形――“生理的共感装置”である。単なる勝敗のドラマではなく、プレーそのものが生のメタファーとして機能しているのだ。
老いたマッケンロー、そしてナブラチロワの不老伝説
画面に一瞬だけ映るジョン・マッケンローとクリス・エバートの解説者役出演。これは単なるカメオではない。テニスの“時代の継承”を象徴する装置だ。
彼らはかつての戦場(コート)を離れ、いまは言葉で世界を構築する。つまり、「戦う身体」が「語る身体」に変わった存在。そこに映画的な哀しみがある。
そして、ナブラチロワ。彼女はいまなお、年齢を超えた存在として画面外に君臨している。老いを拒絶するのではなく、老いを更新する肉体――。『ウィンブルドン』という映画の中で描かれる若さと老いのコントラストは、彼女の不老神話によって補完されているのだ。
テニスとは“生の持続”の寓話である。
テニスという人生の比喩
『ウィンブルドン』は、恋愛によって自己を再起動させる男の寓話であり、スポーツという形式を借りた成熟の物語だ。恋と勝利のどちらも“瞬間”に過ぎず、重要なのはプレーを続けること。ピーターは勝つことで救われたのではない。もう一度、戦うことを選んだというその行為にこそ意味がある。
人生は試合のように繰り返され、恋もまたその一部でしかない。だが、たとえラリーが途切れても、人はラケットを握り続ける。『ウィンブルドン』は、そんな人間の継続の美学を、芝生の光の中に刻んだ映画なのだ。
- 原題/Wimbledon
- 製作年/2004年
- 製作国/イギリス
- 上映時間/99分
- ジャンル/恋愛、コメディ、スポーツ
- 監督/リチャード・ロンクレイン
- 脚本/アダム・ブルックス、ジェニファー・フラケット、マーク・レヴィン
- 製作/ライザ・チェイシン、エリック・フェルナー、メアリー・リチャーズ
- 製作総指揮/ティム・ビーヴァン、デブラ・ヘイワード、デヴィッド・リヴィングストン
- 撮影/ダリウス・コンジ
- 音楽/エドワード・シェアマー
- 編集/ハンフリー・ディクソン
- 衣装/ルイーズ・スチャンスワード
- キルステン・ダンスト
- ポール・ベタニー
- ニコライ・コスター=ワルドー
- ジョン・ファヴロー
- サム・ニール
- オースティン・ニコルズ
- バーナード・ヒル
- エレノア・ブロン
- ジェームズ・マカヴォイ
- アマンダ・ウォーカー
- ウィンブルドン(2004年/イギリス)
