2018/1/18

『リンダ リンダ リンダ』(2005)何も変わらない青春とブルーハーツの余白

『リンダ リンダ リンダ』(2005)
映画考察・解説・レビュー

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リンダ リンダ リンダ』(2005年)は、文化祭を目前にメンバー脱退というトラブルに見舞われた女子高生バンドが、韓国からの留学生ソンを新たなボーカルに迎え、ブルーハーツの名曲を完成させようと奔走する数日間を描く。練習不足や意思疎通の難しさ、些細な衝突を抱えながらも、彼女たちは少しずつ音を重ね、やがて雨の本番へと向かっていく。等身大の時間が静かな余韻で流れる青春ドラマであり、第29回日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。ぺ・ドゥナの日本映画初主演作としても知られる。

ブルーハーツは何も変えない、だからこそ輝く

たぶん、山下敦弘監督の『リンダ リンダ リンダ』(2005年)が限りなくチャーミングなのは、そこに描かれる「文化祭バンド」が、何かを劇的に変革する存在として位置づけられていないからだ。

青春映画にしばしば付随する「熱血」や「神話的成就」の物語線はここには存在しない。主人公たちは、ブルーハーツを演奏したところで自分たちの人生が一変するわけでもなく、友情や恋愛が永遠に保証されるわけでもないことを、知りすぎるほどに知っている。

その「諦観」の空気こそが、むしろ彼女たちを非日常的空間である文化祭に一時的に身を委ねさせる契機となり、結果として作品全体を「まったりとした非熱血系ドラマ」へと仕立て上げている。

この点は、同じく女子高生が音楽に打ち込む物語である矢口史靖『スウィングガールズ』(2004年)との対照によって鮮明になる。『スウィングガールズ』が、努力と友情によってアマチュア音楽集団が成功を獲得するという「青春映画の神話」を体現していたのに対し、『リンダ リンダ リンダ』では、音楽はあくまで日常を転がすための小道具にすぎない。

スウィングガールズ
矢口史靖

ブルーハーツへの特別な憧憬や同時代的ノスタルジーはそこにはなく、むしろ「タテノリのビートなら観客にウケるだろう」という場当たり的な判断が楽曲選択を決定する。対象に対する監督の微妙な距離感が、この二作を分かつ決定的な差異を形成している。

「熱狂」を拒むカメラ──観客と距離を置く視線

その距離感は演出にも顕著だ。本番の演奏シーンにおいて山下監督は、観客の熱狂をロングショットで捉えるにとどめ、ペ・ドゥナを真後ろや真横から映すカットを基本に編集している。横からの視線はバックステージ、すなわち「主催者側の視線」として機能し、観客的陶酔の外部にカメラを据え置く。

この抑制的態度は、観客に熱狂を共有させるのではなく、むしろその外部から出来事を見つめさせる。二曲目の「終わらない歌」に至っては、演奏シーンそのものが省略され、降りしきる大雨の校舎外のカットが繋がれるのみだ。

体育館に観客が集まるのは彼女たちの演奏に引き寄せられたからではなく、雨宿りの偶然にすぎない。この徹底した「熱狂の拒否」が、山下をオフビート・フィルムメーカーとして確立させている。

響く“風来坊”──日本語ロック史を横断する文脈の重なり

また、この映画が示す音楽的文脈の多層性にも注目すべきだ。劇中、遅刻したバンドメンバーの穴を埋める形で湯川潮音が歌う「風来坊」(はっぴいえんど)は、細野晴臣による日本ロック史上の名曲であり、ブルーハーツ的直情ロックとは異なる系譜を示している。

HAPPY END
はっぴいえんど

ここで山下監督は、単なる懐メロ的選曲を超え、日本語ロックの歴史的厚みを文化祭の空間に呼び込むことに成功している。青春映画のなかではっぴいえんどを響かせることは、実際の高校生観客がどのように受け止めたにせよ、1970年代の叙情と2000年代的な諦観とを架橋する批評的効果をもたらしている。

パーランマウム=青い心

さらに言えば、バンド名「パーランマウム」(韓国語で青い心、即ちブルーハーツ!)が、前田亜季でも香椎由宇でも関根史織でもなく、ペ・ドゥナによって命名されることは、非常に象徴的といえる。

ブルーハーツは本来、日本の青春や若者文化の象徴として語られることが多い存在だが、韓国から来た留学生が、自分なりにそれを翻訳して名付けている。つまり、ブルーハーツは日本の青春として閉じたものではなく、別の文化に持ち込んでも通じる共通言語のように機能している。

韓国語に置き換えられることで、「ブルーハーツ=日本の青春」という固定的な意味から離れ、「ブルーハーツ=誰でも共有できる青春の象徴」へと拡張されているのだ。だからこそこの非熱血青春ドラマは、むしろユニバーサルな魅力を放つ。

『リンダ リンダ リンダ』は「何も変わらない青春」を描きながら、その「変わらなさ」を肯定する映画だ。文化祭での演奏は一過性であり、人生の決定的転機にはならない。それでも、その瞬間の濃度を生き抜くこと自体が意味を持つ。

熱血的な成就神話を拒否する態度、オフビートな美学。そこに青春の真実を見出す山下敦弘の映画的信念が、この映画には鮮やかに刻印されている。

FILMOGRAPHY