『シベールの日曜日』──無垢という幻想が崩れる瞬間
『シベールの日曜日』(原題:Cybele ou les Dimanches de Ville d’Avray/1962年)は、アンリ・ドカエ監督が、戦地での事故により記憶を失った退役軍人ピエールと、フランソワーズと名乗る12歳の少女との交流を軸に描いた物語。ピエールはインドシナ戦線で少女を誤って殺害した経験を抱えており、日常生活に馴染めないまま過ごしていたが、出会った少女との会話や遊びを通じて穏やかな時間を取り戻していく。彼女は本名を持たず、自らをフランソワーズと呼んでいたが、やがてピエールに「シベール」という本当の名前を明かし、二人の距離は変化を迎える。
近代が作った“無垢”の虚像
基本的に、僕は子供が登場する映画が嫌いだ。それは単なる嗜好の問題ではなく、「子供」という概念そのものが近代社会によって過剰に美化されてきた歴史に起因している。
近代以降の文化は、子供を“無垢”“純真”“守られるべき存在”として神話化し、現実の複雑な側面を見えなくしてしまった。実際の子供はそんな幻想的な存在ではない。
利己的で、狡猾で、嘘をつき、残酷にもなりうる。にもかかわらず映画表象は「可愛らしさ」を過剰に投影し、それを美徳として提示する。その厚化粧に、僕はいつもイライライライライラしてしまう。
そう考えると、アンリ・ドカエ監督『シベールの日曜日』(1962年)は、まさに僕が避けたい領域の中心にあるはずだった。30歳の男と12歳の少女という設定は、典型的に“純粋な子供”という虚像を増幅させる物語に見える。
しかし鑑賞してみると、この作品は偏見をあっさりと裏切った。なぜなら本作は、表向きのヒューマニズムによって倒錯を中和しない。“ロリコン映画”としての構造をあえて引き受け、その歪さを作品の強度へと転換しているからだ。
子供という幻想を利用するのではなく、幻想そのものを問いただすことで、映画は倫理の次元とは別の領域──関係の構造そのもの──へ踏み込んでいく。
不均衡な関係を“救済せず”に描き切る
主人公ピエール(ハーディ・クリューガー)は、インドシナ戦線で少女を誤って殺害し、そのショックから記憶の一部を喪失している退役軍人だ。彼の精神は大人でありながら、戦争体験の外傷によって著しく“未成熟化”している。
その彼が出会うのが、パトリシア・ゴッジ演じる少女フランソワーズ。後に本名「シベール」を名乗り直すこの少女との関係は、『レオン』(1994年)や『タクシードライバー』(1976年)が提示した「精神的に大人な子供 × 精神的に子供な大人」という逆転構造とは異なる。
ここで描かれているのは、より素朴で、より危険な倒錯──「精神的に幼い大人 × 年齢相応の子供」──というアンバランスな関係。作品全体がこの不均衡を解消しようとしない点に、本作の独自性がある。
フランソワーズが秘密にしていた本名「シベール」をピエールに与える場面は象徴的だ。名前の贈与は象徴的な婚姻契約であり、関係はこの瞬間、“遊びの領域”から“恋愛の領域”へと不可逆的に移行する。
もちろん、直接的な性的描写は存在しない。しかし象徴のレベルでは、すでに関係は性愛としての位相へと変質している。アンリ・ドカエのモノクロ映像がこの倒錯に薄いヴェールをかける。
硬質な光の陰影のなかで、ふたりの関係は現実と幻想の中間に浮遊し、お伽噺的外観をまといながらも、その内部では歪な構造が露出し続ける。
世界を排除するという暴力性
ピエールが、シベールと遊んでいた少年を殴り倒す場面は、本作の本質をもっとも端的に表している。ここでは、彼の未熟さだけでなく、恋愛そのものが秘める“排他性”と“暴力性”が露骨に露呈する。
恋愛とはしばしば、外部を拒絶し、ふたりだけの宇宙を形成する閉鎖的制度である。愛情は時に攻撃性へと転化し、関係の外側にいる者を暴力的に排除する。映画は、この原初的構造を極端な純度で描き出す。
湖畔での「わたしたちだけのおうち」は、二人が世界から切り離され、自分たちだけの宇宙を構築していく象徴的空間だ。ここで社会性は剥がれ落ち、ふたりの関係は世界から独立した親密圏として自律しはじめる。
アンリ・ドカエの端正なモノクロ映像は、周囲の現実世界との接点を徐々に削ぎ落とし、空間を抽象化していく。モーリス・ジャールの音楽は過剰に感傷へ傾くことなく、淡白な旋律で幻想の境界を静かに引き伸ばし、ふたりを“お伽噺の皮膜”の内側に閉じ込める。
ここでの幻想は、可愛らしさの演出ではない。むしろ倒錯の危うさを浮き彫りにするための装置であり、閉鎖性そのものを視覚化するための手段である。
倒錯を引き受けた映画
一般的な解説では、「ロリコン映画に見えるかもしれないが……」という前置きが用いられがちだ。しかし、本作に関してはその逃げ道はもはや不要。むしろ本作がロリコン映画として成立しているからこそ、他にない強度を獲得している。
倒錯を肯定するわけでも否定するわけでもなく、その構造だけを剥き出しで提示する。この冷徹な態度が、映画を倫理的議論から遠ざけ、恋愛の閉鎖性を鋭利な刃物のように可視化している。
ここで描かれるのは、子供という幻想の崩壊、大人の未成熟、象徴的婚姻、世界からの断絶、閉鎖空間としての恋愛──こうした複数のテーマが驚くほど精密に噛み合っている点だ。恋愛という制度に潜む暴力性をそのまま提示することで、映画は“倫理の手前”にある生々しい構造へと到達する。
美化でも批判でもなく、ただ関係の歪さそのものを凝視する。その姿勢こそが、『シベールの日曜日』を時代を超えて異様な輝きを放つ作品へと押し上げている。倒錯を中和しないまま抱え込み、そのまま美学として昇華してしまうことに、この映画の、唯一無二の強度がある。
- 原題/Cybele ou les Dimanches de Ville d’Avray
- 製作年/1962年
- 製作国/フランス
- 上映時間/110分
- 監督/セルジュ・ブールギニョン
- 原作/ベルナール・エシャスリオー
- 脚色/セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル
- 撮影/アンリ・ドカエ
- 美術/ベルナール・エヴァン
- 音楽/モーリス・ジャール
- ハーディ・クリューガー
- パトリシア・ゴッジ
- ニコール・クールセル
- ダニエル・イヴェルネル
