2017/11/2

『本陣殺人事件』(1974)グラサン金田一の衝撃。ATGが解体した、横溝文学の血と情念

『本陣殺人事件』(1974)
映画考察・解説・レビュー

4 OKAY

本陣殺人事件(1974年)は、名探偵・金田一耕助が初めて挑んだ「密室殺人」の謎を描く、高林陽一監督によるミステリー映画である。雪の降る夜、婚礼に沸く旧家・一柳家で起きた凄惨な事件を、独自の美学に基づいた実験的な映像美で描き出している。主演の中尾彬が、従来のイメージを覆すジーンズ姿の知的な金田一を演じ、横溝正史の世界観にモダンな息吹を吹き込んだ意欲作である。

【思いっきりネタをばらしているので、未見の方はご注意ください。犯人もバラしてますので。】

昭和ロマネスクの蒸発

記念すべき金田一耕助シリーズの第一弾にして、戦後日本探偵小説の金字塔を、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の実験作家・高林陽一が映像化した『本陣殺人事件』(1975年)。

この映画を語る上でまず断言しなければならないのは、時代設定を昭和初期から撮影当時の「現代」へと無理矢理スライドさせたことが、作品の魂を根底から破壊してしまったという事実だ。

これは単なる予算削減の結果ではなく、高林監督が「伝統的な日本家屋の幾何学的な直線美を、現代のクールな視点で切り取りたい」という、当時全盛だったアヴァンギャルドな野心に基づいたものだったという。

だが、これが大誤算。金田一耕助を演じる若き日の中尾彬(まだマフラーをぐるぐる巻きにする前)は、グラサンにジーンズ、首からペンダントという70年代ヒッピースタイルで颯爽と登場。

後の市川崑監督版『犬神家の一族』(1976年)で石坂浩二が確立した、時代に取り残されたような「放浪の探偵」像とは似ても似つかぬ、浮ついた異物感を放っている。

横溝正史が描いた「封建的な一族の末裔」という呪縛、あの湿り気を帯びたドロドロの怨念は、70年代のカラッとした風景の中ではその重力を完全に失い、単なる「風変わりな家庭騒動」へと矮小化されてしまった。

ロマン溢れる戦後の闇を、当時のインスタントな現代性で上書きした結果、作品が持つべき「血の湿度」は跡形もなく蒸発し、観客は「本陣」という舞台設定そのものに違和感を抱き続けることになる。

「地主の誇り」を捨てた賢蔵

物語の核心であり、密室殺人の引き金となる真犯人・一柳賢蔵(田村高廣)の動機もまた、設定の変更によって致命的なデチューンを遂げている。

原作における賢蔵は、本陣の末裔としての過剰なプライドと、狂気的なまでの潔癖症が結びついた「暴君」としての悲劇を体現していた。彼にとって、歳の離れた美しい花嫁が「非処女」であったことは、自分の人生への裏切りである以上に「家名に対する絶対的な汚辱」であり、その不潔さを抹消するための儀式として惨殺が行われるのだ。

しかし映画版での賢蔵は、「少年のような純粋さで愛したがゆえに、処女でなかった妻を許せなかった」という、ひどく甘ったるいメロドラマ的ロマンチシズムへと改変されている。これでは本作の背骨である「本陣の悲劇」が全く機能しない。

親戚一同にシャッポを脱ぎたくないがために縁談を破談にできないという、あの強固な地主的意識、家格への執着こそが横溝文学の醍醐味だったはず。それを「純愛の裏返し」という陳腐な動機にすり替えてしまったことで、一柳家という巨大な密室を支える心理的障壁が完全に崩壊している。

撮影中、名優・田村高廣は一切の笑顔を封印し、冷徹な静止画のような演技でこの狂気に挑んだが、そのストイックな努力さえも、脚本段階での「動機の脆弱さ」を埋めるには至らない。

額縁に亀裂が走るカットなど、幾ら象徴的な映像を見せられたところで、本質的な「家の呪い」が描けていない以上、観客の心に深い傷を残すことは不可能だったのである。

大林宣彦の旋律が招いた不協和音

映像表現においても、高林監督の実験映画的な癖(へき)が完全に裏目に出ている。

妙に長いワンカットの多用はテンポを著しく停滞させ、状況描写のほとんどが登場人物の台詞という「説明過多」な構成は、映画としてのダイナミズムを殺している。

日本家屋の格子戸や障子が生む「直線の美」を追求したカメラは、幾何学的な様式美としては成立しているかもしれないが、ミステリーとしての興奮や恐怖を完全に削ぎ落としてしまった。

さらに極めつけは、日本家屋の構造を活かした密室トリックの解説。なぜか計3回にもわたって、ご丁寧かつ執拗に描かれるその演出は、もはや「教育ビデオ」の域に達しており、しつこいことこの上ない。どんなに理解力の低い観客でも、あんなに繰り返されれば飽き飽きするっつーの!

そして音楽。本作の音楽監督を務めているのは、なんと後に『転校生』(1982年)で巨匠の名を不動のものにする大林宣彦。自主製作映画時代から自らピアノを弾いていたその才能を高林監督が畏敬し、異例の起用となったわけだが、正直これも成功したとは言い難い。

大林特有の、あまりにも叙情的で甘美すぎる旋律は、横溝正史が本来持っている「血の汚れ」や「情念の恐怖」と激しくコンフリクトを起こし、せっかくの惨劇を妙にマイルドに中和してしまっているのだ。

『本陣殺人事件』は、実験映画的な美意識が、横溝文学の豊穣な土着性を完膚なきまでに殺してしまった、皮肉な失敗作と言わざるを得ない。封建制という名の「見えない心理的密室」を、物理的な「三本指のトリック」へと矮小化したその罪は重い。

本作が公開された翌年、市川崑が『犬神家の一族』で「様式美と土着性」の完璧な融合を成し遂げたことを考えれば、高林監督のこの実験がいかに早すぎたかが明白になるだろう。

DATA
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CAST
FILMOGRAPHY