『あなただけ今晩は』(1963)
映画考察・解説・レビュー
『あなただけ今晩は』(原題:Irma la Douce/1963年)は、ビリー・ワイルダー監督が手掛けたロマンティック・コメディ。フランスの人気舞台ミュージカルを原作にしながら、歌と踊りを排し、会話とテンポだけで音楽的リズムを生み出した。娼婦イルマと警官ネスターの奇妙な恋が、パリの歓楽街を舞台に繰り広げられる。
“ミュージカル嫌い”が紡いだソフィスティケート・コメディ
『あなただけ今晩は』(1963年)は、フランスでヒットしたミュージカルを原作に、ビリー・ワイルダー、ジャック・レモン、シャーリー・マクレーンという『アパートの鍵貸します』(1960年)の黄金トリオが再結集して作り上げた、ロマンティック・コメディである。
だがここに、ワイルダーらしいひねりがある。彼は筋金入りのミュージカル嫌いであり、歌と踊りを排除し、台詞のリズムとカットのテンポによって音楽的快楽を作り出した。つまり彼は“音楽を削除することでミュージカルを成立させた”のである。
映画の舞台は、パリの娼婦街。派手なネオンサインの下、愛と欲望が混沌とする迷宮を、ワイルダーは完璧な構築美で描き出す。そこには善悪の境界が消滅した世界があり、観客は笑いながらも、人間の滑稽さと哀しさの等価交換を見せつけられることになる。
ジャック・レモン演じる警官ネスター・パチュリは、真面目すぎるがゆえに世界のルールに馴染めない男。彼は娼婦イルマ(シャーリー・マクレーン)に恋をし、彼女のヒモに成り下がる。
だが愛する女性が他の男と寝ることに耐えられず、自ら“英国紳士X卿”に変装し、500フランで彼女の専属客となる。滑稽で哀しい二重生活。観客は笑うが、笑いの奥には、性と愛、労働と搾取、幻想と現実の入れ替わりという冷徹なテーマが隠されている。
ワイルダーは、恋愛をコメディの枠に閉じ込めず、人間の愚かさを描く寓話として仕立てているのだ。マクレーンのイルマは、天真爛漫でありながら自己保存の本能に忠実で、彼女のまなざしには娼婦という職業の誇りと諦念が同居している。
二人の愛は、誠実であるがゆえに欺瞞的であり、欲望であるがゆえに純粋である。そのアンビバレンスこそが、ワイルダー流ロマンスの核心だ。
バー〈マスターシュ〉──物語を支配する“語りの装置”
本作の狂言回しであるバー〈マスターシュ〉のマスター(ルー・ジャコビ)は、ワイルダー映画の“神”。彼は語り手であり、観察者であり、時に登場人物の運命を導く存在でもある。
物語が混乱しかけると彼が現れ、状況を整理し、観客を物語の中心に引き戻す。つまり彼は、スクリーン内のシナリオライターとして機能しているのだ。
ワイルダーはこのメタ構造によって、観客に“物語の自覚”を促す。恋と欲望に溺れる登場人物たちを眺めながら、彼はバーカウンター越しに世界の縮図を語る。「人生なんてのはね、カクテルみたいなもんさ。甘いのも苦いのも、混ぜなきゃ味が出ない」。
この台詞に象徴されるように、マスターはワイルダー自身の分身であり、シニカルな観察者として映画全体のバランスを保っている。ゆえに、彼の登場が減る中盤で作品がやや緩むのは必然だ。物語を制御する“語りの神”が沈黙するからである。
ワイルダーは当初、イルマ役にマリリン・モンローを想定していた。さらにバーのマスター役にはチャールズ・ロートンを配する構想もあった。だが、両者はともに1962年に世を去り、その夢は潰えた。マクレーンのイルマはモンローほどの官能はないが、より現実的で、時代を超える“労働する女性像”を体現している。
もしモンローが演じていたら、映画はもっと悲劇的だっただろう。ワイルダーの中には、永遠にモンローの幻影が棲みついている。彼女を失った後の作品群には、どこか痛切な欠落が漂う。
本作のイルマもまた、男に愛されながら男を支える存在ではなく、男を見抜き、利用し、なおかつ愛してしまう女性として描かれている。そこに、ワイルダーの成熟と諦念がある。彼はロマンティシズムを信じない。
だが、信じられないことを知りながら、なお愛を描かずにはいられない──それが『イルマ・ラ・ドゥース』の哀切な美である。
ビリー・ワイルダーから三谷幸喜へ──“それはまた別の話”
この映画は、愛と労働、幻想と現実の境界を行き来する、成熟した大人のための寓話である。ワイルダーはミュージカルを拒みながら、人生そのものを音楽に変えた。バーのカウンターに腰掛けたマスターのように、彼は世界をシェイカーで振りながら、苦味と甘味を絶妙にブレンドする。
そう言えばフジテレビ系ドラマ『王様のレストラン』で、物語の最後に「それはまた別の話」というナレーションが挿入されていたが、これは脚本を書いた三谷幸喜によるビリー・ワイルダーへのオマージュと受け取るべきだろう。
三谷幸喜の作品は、他にもワイルダーの影響を見て取れるのだが、それはまた別の話。
- 原題/Irma la Douce
- 製作年/1963年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/143分
- ジャンル/恋愛、コメディ
- 監督/ビリー・ワイルダー
- 脚本/ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
- 撮影/ジョセフ・ラシェル
- 音楽/アンドレ・プレヴィン
- 編集/ダニエル・マンデル
- 美術/アレクサンダー・トゥローナー
- 衣装/オーリー・ケリー
- シャーリー・マクレーン
- ルー・ジャコビ
- ブルース・ヤーネル
- ハーシェル・バーナルディ
- ホープ・ホリディ
- ジョアン・ショーリー
- グレイス・リー・ホイットニー
- ハリエット・ヤング
- 昼下りの情事(1957年/アメリカ)
- アパートの鍵貸します(1960年/アメリカ)
- あなただけ今晩は(1963年/アメリカ)
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