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黒い画集 あるサラリーマンの証言/堀川弘通

『黒い画集 あるサラリーマンの証言』──小市民の倫理はなぜ崩壊したか

『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年)は、妻子ある中年社員・石野(小林桂樹)が、同僚の女性との密会を隠すために嘘の証言をしてしまう物語。無実の同僚を救うには不倫を告白するしかないという板挟みの中で、彼の小さな嘘が次第に取り返しのつかない悲劇を呼び込んでいく。

不倫の密室からはじまる“日本的罪悪”の物語

妻子がありながら、同じ部署の若いOL梅谷(原知佐子)と不倫を重ねている中年サラリーマンの石野(小林桂樹)。いつもの逢瀬の帰途、近所に住む保険外交員の杉山(織田政雄)とバッタリ遭遇。

後日、その杉山が殺人事件の容疑者として逮捕されてしまう。杉山のアリバイを証明するには、石野の証言が必要。だが不倫の事実をバラしたくない石野は、保身から「彼とは会ってない」と警察に告げてしまう…。

昭和のオフィスを背景にしたこの設定は単なる通俗メロドラマの導入に見えるが、実のところ、戦後日本社会におけるモラルの崩壊という清張的主題が冒頭から密かに始まっている。

松本清張原作『黒い画集・証言』の映画化は、東宝が手がけた初の清張作品であり、その点だけでも日本映画史的に興味深い。

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東映が暴力・情念・階級をむき出しに描いたのに対し、東宝はサラリーマン社会という“清潔な中間層”を舞台に、より陰湿で、より無臭な犯罪心理を描いた。それが逆に、戦後経済成長下の「倫理の空洞化」を鮮明に映し出している。

黒澤的リアリズムの継承者──橋本忍と堀川弘通

脚本は橋本忍、監督は堀川弘通。つまり、黒澤明の直系コンビだ。『生きる』『天国と地獄』で見せた構造的脚本術を、清張のサスペンスに応用している。

ただし、黒澤が社会的テーマを“寓話化”して描くのに対し、本作の堀川はあくまで生活の実感に軸を置く。そのため、犯罪は日常の延長線上で静かに発生し、登場人物の心理はすべて合理的で説明可能な範囲にとどまっている。

だがそこにこそ、作品の限界も潜む。黒澤的な“情念の爆発”が存在しないのだ。石野の破滅は論理的に進行するが、そこに生理的な“怖さ”がない。まるで定時退社のように、きっちり破滅に向かって歩を進めていく。

堀川弘通は理性的な職人監督であるがゆえに、清張作品の持つドロリとした倫理の腐敗臭を嗅ぎ取ることができなかったのかもしれない。とはいえ、橋本忍の脚本は精緻だ。一つ一つの偶然が論理的に連鎖し、石野の嘘が自動的に彼を追い詰めていく。

その構成はまるで“罪の装置”であり、人間心理を社会機構に置き換えたような冷徹さがある。橋本は清張の世界を、単なるサスペンスではなく、社会構造に内在する因果律として見事に翻訳している。

キャスティングの妙──善良すぎる男と、無邪気な欲望の化身

配役の妙は、この映画の最大の見どころだろう。小林桂樹は、いかにも“善良そうな中間管理職”を演じさせたら右に出る者はいない俳優。その彼が、嘘を重ねることで破滅に向かう──このキャスティングの逆説が、作品に倫理的重みを与えている。

彼の沈んだ表情は、罪悪感というよりも、“平凡な人間が倫理の檻に閉じ込められた絶望”を象徴している。一方、原知佐子が演じる若い愛人・梅谷の存在は、映画全体の空気を決定づける。彼女の無邪気な明るさは、戦後日本の消費社会が生み出した“モラルなき幸福”の象徴だ。

彼女は悪女ではない。むしろ“倫理以前の存在”として、清張的世界に新しい類型をもたらした。この対比──小林桂樹の抑圧された良心と、原知佐子の肉体的開放──が、作品の最大のドラマツルギーを形成している。

さらに驚かされるのが、若き日の児玉清。のちの「アタックチャーンス!」の温厚な司会者像からは想像できない、軽薄な大学生役だ。彼の存在が、石野と梅谷の不倫関係に“外部の視線”を与え、観客の同情を相対化させる。

児玉清が演じるのは、“戦後モラル”の新しい形──自己責任を信奉する若者の冷笑なのだ。そして小池朝雄のチンピラ役が、この世界にさらに現実の汚泥を流し込む。声の響きからして、すでに社会の底辺を彷徨う亡霊のようである。

詰将棋のような破滅──倫理のメカニズムとしての犯罪

堀川弘通の演出は、徹底して理詰め。まるで将棋の駒を一手ずつ進めるように、物語は破滅へと向かっていく。

だが、その緻密さが逆に観客に“呼吸の余地”を与えてしまう。観る者が感情的に巻き込まれる前に、構図が理性を取り戻す。それがこの作品の最大の欠点であり、同時に最大の魅力でもある。

黒澤明が『天国と地獄』で描いたのは、社会構造に潜む“倫理の不均衡”だった。それに対して、堀川の『黒い画集』は、個人の倫理がいかにして社会構造に吸収されていくかを描く。

つまり、これは“社会的悲劇”ではなく、“制度的悲劇”なのだ。石野の嘘は、誰かを守るためではなく、ただ「会社員としての自己保存本能」にすぎない。そこに戦後サラリーマン社会の“倫理の死”がある。

東宝リアリズムの限界──あまりに清潔な悲劇

堀川の映像は整っている。カメラは安定し、照明は明るく、構図は秩序立っている。だが、その清潔すぎる美学が、清張的世界──泥と欲望と汗の匂い──を殺してしまっている。映像があまりにも「上品」すぎるため、観客は石野の破滅を“観察”できてしまうのだ。

本来この物語は、観る者が一緒に堕ちていくべき泥沼の心理劇であるはずなのに。このあたりに、東宝というスタジオの体質が見え隠れする。東映が“情念の暴発”を好んだのに対し、東宝は“理性的悲劇”を撮る。それが戦後日本の中産階級の安心感に結びついていた。

『黒い画集』はまさにその象徴であり、映画としては見事だが、倫理劇としては“安全すぎる”。堀川の几帳面な職人性が、清張の毒を少し薄めてしまったのかもしれない。

まとめ──“善人の罪”という日本的モラルの終焉

『黒い画集 あるサラリーマンの証言』が描くのは、“悪人の悪”ではなく、“善人の罪”である。石野は誰も殺していない。しかし、彼の嘘が一人の人間の人生を奪う。

清張の世界では、悪とは行為ではなく、沈黙である。つまり、語らなかった者、真実を隠した者が、最も深い罪を背負うのだ。この映画は、戦後日本が豊かさを手に入れると同時に失った“倫理の重さ”を静かに告発している。

不倫、嘘、沈黙、出世、会社──そのすべてが当たり前になったとき、人間はもう罪を感じなくなる。『黒い画集』とは、まさにそんな“罪を忘れた社会”の肖像画なのである。

DATA
  • 製作年/1960年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/97分
STAFF
  • 監督/堀川弘通
  • 製作/三輪礼二
  • 原作/松本清張
  • 脚本/橋本忍
  • 撮影/中井朝一
  • 音楽/池野成
  • 美術/村木忍
  • 録音/藤好昌生
  • 照明/森弘充
CAST
  • 小林桂樹
  • 中北千枝子
  • 平山瑛子
  • 依田宣
  • 原知佐子
  • 織田政雄
  • 菅井きん
  • 平田昭彦
  • 西村晃
  • 児玉清
  • 中村伸郎