『SUPER8/スーパーエイト』──スピルバーグ神話の継承と終焉
『SUPER8/スーパーエイト』(原題:Super 8/2011年)は、J・J・エイブラムスが1979年のアメリカを舞台に、“映画を撮る少年たち”の成長を描いたSFアドベンチャー。製作にスティーヴン・スピルバーグが参加し、『E.T.』や『未知との遭遇』の系譜を継ぐ“映画へのラブレター”として誕生した。
フェイク・ドキュメンタリーの継承者──『クローバーフィールド』から『SUPER8』へ
J・J・エイブラムスが監督として名実ともにハリウッドの第一線に躍り出たのは、『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)だった。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)に端を発するPOV(主観映像)方式を、モンスター映画という大衆ジャンルに導入し、フェイク・ドキュメンタリーを新しいエンターテインメントの文法として提示した点で、あの作品は映画史的転換点に位置づけられる。
YouTubeを駆使したプロモーション戦略も功を奏し、プロデューサーとしてのエイブラムスは“観客の記憶をメディアで再構築する”方法論を獲得した。『SUPER8/スーパーエイト』は、その延長線上に誕生した。
もともとは『クローバーフィールド』のプリクエル(前日譚)として企画されたが、構想を深めるうちに、1970〜80年代のスピルバーグ映画群──『未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)、『グーニーズ』(1985)──へのオマージュとして結晶化する。
やがてスティーヴン・スピルバーグ自身が製作に参加し、物語は“スピルバーグの遺伝子を継ぐ少年たち”の物語へと変貌した。つまりこの作品は、“映画の中の映画”であり、“映画を生んだ映画”でもあるのだ。
少年が空を見上げる瞬間
スピルバーグはかつてTV番組『アクターズ・スタジオ・インタビュー』でこう語った。「私の映画を象徴するショットは、『未知との遭遇』で少年が空を見上げる瞬間だ」と。
無垢なる視線が、神秘と畏怖の間で震えるその構図──いわゆる“スピルバーグ・ショット”は、彼の世界観の核心である。『SUPER8』は、その再現から始まる。
8mmカメラを手にした少年たちが夜空を仰ぎ、光を見つめる。その表情には、宇宙を発見する子供たちの驚異と、撮る者の眼差しが重なっている。
エイブラムスはここで、“空を見上げる子供=映画を撮る監督”という等式を提示する。カメラは宇宙を覗く装置であり、フィルムとは“未知との遭遇”を物質化するための小さな望遠鏡なのだ。
また、“片親の不在”というテーマも、スピルバーグ神話の再演として継承されている。主人公ジョーは母を亡くし、父は警官として感情を閉ざしている。
その構図は『E.T.』や『インディ・ジョーンズ』シリーズで繰り返される「父なき家族」の変奏である。子供の成長は常に“欠損”から始まり、欠けたものを想像力で補うことこそが映画の原動力なのだ。
ジョーたちが自主映画を撮る動機は、世界の不在を埋めること。それは創造の衝動そのものである。
スピルバーグの遺伝子
エイブラムスは1966年生まれ。スピルバーグが8mmカメラで撮り始めた世代のちょうど後続にあたる。『SUPER8』の舞台は1979年、エイブラムスが少年だった時代だ。つまりこの映画は、彼自身の“映画的原風景”の再現であり、セルフ・ポートレートでもある。
彼が描く8mmの世界は、懐古ではない。むしろフィルムというアナログ媒体が持っていた“記憶のノイズ”を再生しようとする試みだ。粒子の粗さ、露出のムラ、編集の荒さ──それらはすべて“過去の手触り”として観客の記憶を刺激する。今やスマートフォン一つで映像が撮れる時代にあって、8mmの不完全さは逆に“映画の純粋性”を証明するものとなった。
スピルバーグが“最初の8mm少年監督”であったとすれば、エイブラムスは“最後の8mm世代”である。二人の間には、アナログからデジタルへの巨大な断絶が横たわるが、その橋渡しを担ったのがこの『SUPER8』だ。
8mmカメラのフィルムが回転する音と、現代のVFXが融合する瞬間、映画は過去と未来を一つの時間軸に接続する。これは単なるノスタルジーではなく、“映画という記憶装置の自己保存”なのだ。
『SUPER8』にはスピルバーグ映画の構造的DNAが隅々にまで埋め込まれている。たとえば“見せない怪物”の演出。これは『ジョーズ』(1975)以来の“ジラシ”の美学だ。
恐怖は姿を見せた瞬間に終わる。だからこそ、トンネルの闇の中で鳴り響く金属音や、貨物列車の爆発に紛れてチラリと見える“何か”が観客を惹きつける。『ジュラシック・パーク』(1993)のT・レックスが雨の中で咆哮するあの構図と、同じリズムが刻まれている。
また、ゾンビ映画を撮る少年たちの設定は、ジョージ・A・ロメロへの愛ある引用だ。ホラーの“擬似的現実感”を、子供たちのアマチュア撮影という文脈で再生することで、エイブラムスは“B級映画の精神”をメジャーの文法に引き上げている。
主演俳優に無名の子役ばかりを起用し、ジョン・ウィリアムズ風のオーケストレーションをあえて模倣することで、“スピルバーグ・ブランド”のパロディ性をも抱え込む。
この映画が優れているのは、単なるトリビュートに終わらない点だ。エイブラムスは“憧れの再現”ではなく、“憧れの終焉”を描いている。つまりスピルバーグ的世界観の再現ではなく、その閉幕としての“8mm少年たちの別れ”なのである。
ノスタルジーの終焉としての『SUPER8』
クライマックス、空に浮かぶエイリアンの母船を見上げるジョーの姿に、観客は二重の視点を重ねる。ひとつは“未知なる存在への畏敬”であり、もうひとつは“映画という幻影への別れ”である。スピルバーグの少年たちは“奇跡の到来”を信じていた。だがエイブラムスの少年は、“奇跡が過ぎ去る瞬間”を見届ける。
それはまさに世代の断絶であり、映画の進化の証でもある。70年代後半に誕生したブロックバスター黄金期を、デジタル世代の監督が自ら葬送する。『SUPER8』はスピルバーグ映画へのラブレターであると同時に、“父への訣別”の物語でもあるのだ。
そしてこの映画の真の主役は、エル・ファニングである。彼女が放つ無垢と成熟の狭間の光は、スピルバーグが描いた“未知なるもの”そのものだ。少年たちのカメラに映る彼女の姿は、まさに“映画の精霊”であり、“幻影の化身”である。
『SUPER8/スーパーエイト』は、70年代に少年たちが空を見上げた瞬間の記憶を、21世紀の観客にもう一度体験させるための“時空のフィルム”だ。フェイクでもCGでもなく、そこにあるのは“映画を信じる力”そのもの。
映画を作ること、映画を信じること。その純粋な行為を、J・J・エイブラムスは最も誠実に継承している。
- 原題/Super 8
- 製作年/2011年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/111分
- 監督/J・J・エイブラムス
- 製作/スティーヴン・スピルバーグ、J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク
- 製作総指揮/ガイ・リーデル
- 脚本/J・J・エイブラムス
- 撮影/ラリー・フォン
- プロダクションデザイン/マーティン・ホイスト
- 衣装デザイン/ハー・ヌウィン
- 編集/メリアン・ブランドン、メアリー・ジョー・マーキー
- 音楽/マイケル・ジアッチーノ
- ジョエル・コートニー
- エル・ファニング
- カイル・チャンドラー
- ライリー・グリフィス
- ライアン・リー
- ガブリエル・バッソ
- ザック・ミルズ
- ロン・エルダード
- ノア・エメリッヒ
- ジェシカ・タック
- ジョエル・マッキノン・ミラー
- グリン・ターマン
- リチャード・T・ジョーンズ
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