2017/10/23

BALLAD 名もなき恋のうた/山崎貴

作劇のアラが目立ちまくった、全く血が流れない大甘時代劇

「クレしん」の奇跡を「ラスト・サムライ」の幻影で上書きする無謀

映画における野心と無謀は紙一重。だが、2009年に公開された『BALLAD 名もなき恋のうた』ほど、その境界線を盛大に踏み外し、我々映画ファンを困惑の渦に叩き込んだ作品も珍しい。

興行収入18.1億円という数字は、一見ヒット作に見えるかもしれない。だが、投じられた巨額の製作費と、国民的アニメの実写化という看板の大きさを考えれば、それは事実上の敗北宣言に等しい。

なぜ、この映画は失敗したのか? そこには、日本のエンターテインメント大作が抱える構造的な欠陥と、山崎貴という稀代のヒットメーカーが抱える「作家性の限界」が残酷なまでに刻印されているのだ!

何でも本作は、山崎貴監督が『ラスト・サムライ』(2003年)のロケ現場を見学したことに端を発するらしい。エドワード・ズウィック監督が指揮するハリウッドの現場、その圧倒的な物量と熱量、そして日本の風景の中に再現された「本物の戦国」を目の当たりにし、彼の中に強烈な渇望が生まれた。

「日本のVFX技術とスタッフでも、これだけの時代劇が撮れるはずだ」と。その志自体は素晴らしい。日本のエンターテインメントが世界基準を目指す、その気概には拍手を送りたい。

しかし、まさかその本格時代劇への挑戦の出典を、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002年)に求めるとは思わなんだ。

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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一)

『クレしん』的ドタバタ・コメディーを、最新のVFXを駆使して実写で「完全再現」しようなんぞ、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)をキムタクで実写化する以上に無謀な賭けではないか(後に山崎監督はそれもやってのけるわけだが、それはまた別の話だ)!

原恵一監督によるアニメ版『アッパレ!戦国大合戦』が傑作たり得たのは、それがアニメーションだったからだ。

二頭身のしんのすけが戦場を駆け回るという絵的な嘘が許容される土壌の上で、徹底してシリアスな歴史考証と人間ドラマを展開したからこそ、そのギャップが観客の胸を打った。いわば、最強の「緩和」があるからこそ、最大の「緊張」が機能したのだ。

しかし、本作はどうだ? 『クレしん』だからオッケー!みたいなノリで(とりあえず)成立していた作劇上の無茶苦茶さは、生身の人間が演じる実写映像に変換された瞬間、隠しようのないアラとなって噴出している。

タイムスリップしてきた現代の少年・川上真一(武井証)と、戦国武将・井尻又兵衛(草なぎ剛)の交流も、実写のリアリティラインに乗せると、どうしても違和感が拭えない。

アニメなら笑って許せるご都合主義が、実写では「脚本の粗」として観客の没入感を阻害する。この「メディア変換における解像度の不一致」こそが、本作がつまずいた最初の、そして最大の石ころなのだ。

血の流れない戦場に潜むリアリティの欠落

僕が最も声を大にして言いたいのは、本作が掲げた本格時代劇という看板の偽装表示疑惑についてだ。特に、クライマックスの合戦シーン。

スクリーンに映し出されるのは、おもいっきり『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(2002年)を参考にしたであろう、春日城攻防戦のシークエンス。

城壁を埋め尽くす敵兵、飛び交う火矢、轟く攻城兵器。カット割りや構図の端々に、ピーター・ジャクソンへのリスペクト(という名の模倣)が見て取れる。撮り方自体は悪くない。VFXのクオリティも、当時の邦画水準を超えている。

だが、決定的にスケール感がない!!!!!!!!!!!!!

守る春日城と、攻め寄せる大倉軍との距離が、あまりにも近すぎる。目と鼻の先とはまさにこのこと。ピーター・ジャクソンがニュージーランドの広大な大地を使って表現した、あの絶望的なまでの距離感と、圧倒的な敵の質量が、ここにはない。

まるで地方の市民ホールの舞台セットを見ているような、箱庭的な狭苦しさ。製作費20億円という、邦画としては破格の巨費を投じたはずが、画面からはそのリッチさが伝わってこない。これは予算の問題というより、空間演出のセンスの問題ではないか。

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『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(ピーター・ジャクソン)

さらに興醒めなのが、長槍部隊同士が叩き合うシーン。なんでも、槍で突くのではなく、上から叩いて敵を無力化するという戦法は、当時の史実に極めて忠実らしい。そのリサーチ精神は買おう。だが、そのリアルな戦法が、映画的な演出として機能しているかは全くの別問題だ。

画面の中で展開されるのは、大の大人たちが長い棒でペチペチと叩き合う、奇妙な光景。しかも、山崎監督はこれを長回しのワンカットで見せてしまう。

カットを割って迫力を演出するのではなく、あえての長回し。その結果、アクションのキレの悪さ、エキストラの動きの緩慢さが露呈し、まるで「お遊戯ごっこ」を見せられているような、気恥ずかしさがこみ上げてくる。リアルを追求した結果、映画的なスリルが死んでしまうという、本末転倒な事態が起きているのだ。

香川京子や油井昌由樹といった、往年の黒澤明映画を知る名優たちをキャスティングした点にも、監督の「黒澤映画への憧れ」が透けて見える。

しかし、彼らの重厚な存在感も、このテレビドラマ的なルックの中では浮いてしまっており、全く機能していない。黒澤明が『』や『影武者』で描いたような、画面から血の匂いが漂ってくるような緊張感は、ここには微塵もないのだ。

いい人は映画監督に向かないのか?

結局のところ、この映画の最大の欠点は、山崎貴監督自身の資質にあるのではないか。

インタビュー映像やメイキングを見る限り、山崎監督は実に実直で、真面目で、スタッフ想いのナイスガイ。VFXマン出身らしい緻密な計算と、少年のような夢を持ち続ける、愛すべき人物なのだろう。

だが、極めて個人的見解を述べさせてもらうなら、そのいい人すぎる性格こそが、映画監督、とりわけ戦場を描く監督としては致命的な欠陥になっているのではないか。

山崎監督のフィルモグラフィー、例えば『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『STAND BY ME ドラえもん』に通底するのは、圧倒的な「甘さ」と「優しさ」だ。それはハートウォーミングな物語では武器になる。しかし、人が殺し合う戦国時代を描く段になっても、その甘さが捨てきれない。

『BALLAD』の戦場には、痛みがない。兵士が斬られても、矢が刺さっても、そこには悲惨さが伴わない。ディズニー映画以上にクリーンで、衛生的な戦場。

僕は別に、「血のりの量が少なすぎる!!!!」ということだけを言いたいのではない。演出の端々に、「残酷なものを直視したくない」「観客を不快にさせたくない」という、監督の無意識のブレーキがかかっているように見えるのだ。

井尻又兵衛と廉姫(新垣結衣)の悲恋もそうだ。身分違いの恋という古典的なテーマを扱いながら、その障害の描き方がどこか手ぬるい。草なぎ剛は、その無骨な佇まいと哀愁漂う背中で、見事に武士を体現していた。彼の演技は素晴らしい。

だが、脚本と演出が、彼を悲劇のヒーローとして美しく散らせることばかりに腐心していて、彼が生きた時代の泥臭さや、人を斬ることの業を描ききれていない。だから、ラストの感動も上滑りしてしまう。

「戦争は悲惨だ」と口で言うのは簡単だ。だが、映画監督ならば、その悲惨さを映像で、生理的な嫌悪感として観客に突きつける義務がある。

プライベート・ライアン』(1998年)でスティーヴン・スピルバーグがやったように、あるいは『野火』(2014年)で塚本晋也がやったように。観客が目を背けたくなるような、阿鼻叫喚の地獄絵図を描いてほしい。

いや、マジで、時代劇で全く血が流れないなんて、あり得ませんから!

『ゴジラ-1.0』(2023年)で、監督はついにその破壊衝動を解き放ったように見えた。だが、2009年のこの時点では、彼はまだ「名もなき恋のうた」を口ずさむ、心優しき青年にすぎなかったのだ。

その優しさが、この映画を凡庸なメロドラマへと引きずり下ろしてしまったことは、日本映画史におけるひとつの教訓として記憶されるべきだろう。

DATA
  • 製作年/2009年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/132分
STAFF
  • 監督/山崎貴
  • プロデューサー/安藤親広、松井俊之
  • エグゼクティブプロデューサー/阿部秀司、梅澤道彦
  • 原案/原恵一
  • 脚本/山崎貴、水島努
  • 撮影/柴崎幸三
  • 美術/上條安里
  • 衣裳/福田明
  • 編集/宮島竜治
  • 音楽/佐藤直紀
  • 衣裳/黒澤和子
  • 録音/鶴巻仁
CAST
  • 草なぎ剛
  • 新垣結衣
  • 大沢たかお
  • 夏川結衣
  • 筒井道隆
  • 武井証
  • 吹越満
  • 斉藤由貴
  • 香川京子
  • 小澤征悦
  • 中村敦夫