【ネタバレ】『レベッカ』(1940)
映画考察・解説・レビュー
『レベッカ』(原題:Rebecca/1940年)は、アルフレッド・ヒッチコック監督のハリウッド進出第一作。イギリスの広大な邸宅マンダレイを舞台に、亡き前妻レベッカの幻影に怯える若き後妻「わたし」が、冷酷なダンヴァース夫人の策略に翻弄されながら、霧深い海岸に隠されたマキシムの過去と事件の真相へと近づいていく様を、ジョージ・バーンズによる格調高いモノクロ映像とフランツ・ワックスマンの不穏な旋律、そしてジョーン・フォンテインが体現した壊れそうなほど繊細な恐怖の熱演と共に描き出す。
レベッカを生んだ二つの巨大なエゴの衝突
アルフレッド・ヒッチコックというイギリスからやってきた天才が、初めてハリウッドの土を踏んだ記念すべき進出第一作。そして、彼の長いキャリアの中で唯一アカデミー賞作品賞をもたらした記念碑的映画。それが『レベッカ』(1940年)だ!
本作は単なるゴシック・サスペンスじゃない。スクリーンに映し出されるのは、サスペンスの神様と、ハリウッドの絶対的権力者が血みどろの殴り合いを演じた、執念とエゴの歴史的ドキュメントなのだ。
舞台裏で火花を散らしたもう一人の主役は、デヴィッド・O・セルズニックだ。映画史に燦然と輝く超大作『風と共に去りぬ』(1939年)を大成功させ、ハリウッドの頂点に君臨していた最強プロデューサーである。
セルズニックはヒッチコックをアメリカに招聘し、製作費約128万ドルという破格のバジェットを叩き込む。結果として興行収入は600万ドルを突破し、批評家からも大絶賛を浴びる完全無欠のメガヒットとなった。だがその栄光の裏側は、地獄の戦場だったのである。
ダフネ・デュ・モーリアの大ベストセラー小説を映画化するにあたり、ヒッチコックは当初、いつものように自分の色を全開に出そうとした。ブラックなユーモアをまぶし、船酔いのギャグなんかを足して、ヒッチコック流のエンタメに仕立て上げようと企てたのである。
ところが、これにセルズニックがブチ切れた。「観客が求めているのは原作通りの映画だ!余計な味付けは一切するな!」と、連日のように長文のダメ出しメモを送りつけ、徹底的な原作至上主義を強要したのだ。
イギリス時代は王様のように振る舞い、すべてをコントロールしてきたヒッチコックにとって、これは屈辱的な牢獄に等しい。だが、ここからが天才の真骨頂。
自由を奪われ、プロデューサーの監視下に置かれたヒッチコックの息苦しさやフラストレーションは、見事にスクリーンに焼き付けられ、物語全体のパラノイア的な圧迫感へと反転していく。セルズニックの偏執狂的なまでの管理体制が、皮肉にも本作のゴシックな恐怖を極限まで高める最高のスパイスになってしまったのだ。
ハリウッドの巨大システムに押し潰されそうになりながらも、決して自らの作家性を明け渡さなかったヒッチコックの執念。このギリギリの緊張感こそが、本作が単なる文芸映画に終わらず、80年以上の時を経ても色褪せない圧倒的なエネルギーを放ち続けている理由なのである。
姿なき最凶のヒロインと、狂気を纏う家政婦
映画史上、最も恐ろしく、最も特異なヴィランは誰か?ダース・ベイダーか?ハンニバル・レクターか?いや、それは本作のタイトルロール「レベッカ」だろう。
何が恐ろしいって、彼女は劇中にただの一秒たりとも姿を現さないのである。一切画面に映らないのに、その場の空気、屋敷の装飾、登場人物のセリフの端々から、圧倒的なカリスマ性と邪悪さが滲み出し、スクリーン全体を完全に支配してしまう。この「不在の暴力」こそが、本作の大発明なのだ。
物語の主人公は、大富豪マキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と電撃結婚した「わたし」である。演じるジョーン・フォンテインには、驚くべきことに名前すら与えられていない。彼女は常にオドオドと怯え、巨大で荘厳な屋敷マンダレイの中で、まるで迷い込んだ子犬のように萎縮し続けている。
アカデミー賞撮影賞を獲得したジョージ・バーンズの冷ややかなカメラワークは、彼女を常に巨大な空間の隅っこに小さく配置し、その無力さを徹底的に強調する。
彼女を追い詰めるのは、前妻レベッカの完璧すぎる残り香だ。刺繍されたイニシャル、豪奢な調度品、そして屋敷の空気そのものが「お前は偽物だ」と新妻を精神的に追い詰めていくのである。
この「見えない幽霊」の代弁者として立ち塞がるのが、ジュディス・アンダーソン演じる家政婦ダンヴァース夫人だ。彼女の凄まじさは言葉を失うレベル。歩く足音すら立てず、気付けばスーッと主人公の背後にヌリカベのように立っている。その底知れぬ無表情と氷のような眼差しは、生きた人間というより、怨念が受肉したモンスターそのものだ。
中盤、ダンヴァース夫人がレベッカの寝室で彼女の遺品を愛撫するシーンは、映画史に残る異常な名場面である。透けるようなネグリジェを頬に擦り付け、毛皮のコートに顔を埋めながら、亡き主人への歪んだ愛情と肉体的な執着を熱っぽく語り出す。
1940年代の厳格なハリウッドの検閲では、同性愛的な描写は絶対に許されなかった。だがヒッチコックは、直接的な言葉や行為を一切使わずに、強烈なフェティシズムとレズビアニズムの匂いを画面いっぱいに充満させて、見事に検閲の目を掻い潜ってしまった。
ヒッチコックは幽霊も血飛沫も一切出さずに、人間の異常な執着心と心理的な圧迫感だけで、極上のホラー空間を創り上げた。これぞまさに、サスペンスの神様が放った一撃必殺のサイコ・スリラーではないか。
検閲すら武器にする映像の魔術師の逆襲
原作小説を読んだ者ならご存知だろうが、クライマックスで明かされる真実は衝撃的だ。冷酷で淫乱な本性を持っていたレベッカを、夫のマキシムは自らの手で射殺していたのである。
しかし当時のハリウッドでは、殺人を犯した者が、罰を受けずにハッピーエンドを迎えることは道徳的に絶対NG。そのため映画版では、レベッカの死は偶然の事故だったという、かなり無理筋な改変が施されている。
普通なら、この設定変更によって主人公の背負う業が薄れ、物語のテンションはダダ下がりになるところ。だが、ヒッチコックとローレンス・オリヴィエの天才コンビは、この不自然な設定すらも極上のサスペンスに逆転させてしまう。
オリヴィエ演じるマキシムは、常に神経質で、突発的に激怒し、深い闇を抱えているように振る舞う。事故死であるならそこまで怯えてキレる必要はないはずなのに、彼の放つ底知れぬ冷酷さは、観客に強烈な疑念を最後まで抱かせ続ける。
検閲による物語の歪みを、あえてキャラクターの情緒不安定な不気味さとして利用する。この逆境をバネにする発想こそが、サスペンスの神様の真の恐ろしさなのだ。
極めつけは、マンダレイの屋敷が燃え上がるラスト。プロデューサーのセルズニックは「煙で夜空に巨大なRの文字を描き出せ!」という、自己顕示欲全開のド派手なB級演出を要求した。
だがヒッチコックは「そんなダサいマネができるか!」とばかりにこれをガン無視。彼がカメラに収めたのは、燃え盛るベッドの上で、レベッカのイニシャル「R」が刺繍された枕カバーが静かに灰に帰っていく姿だった。ド派手なスペクタクルではなく、美しくも残酷な一つのディテールで、一人の女の執念が消滅していく様を完璧に語り尽くしたのだ。
ハリウッドの絶対君主の圧力に屈したように見せかけて、最後の最後で映像作家としての矜持を見事に貫き通したヒッチコック。『レベッカ』は、巨大なスタジオシステムという壁を嘲笑い、検閲という縛りを芸術的な表現へと昇華させ、人間の奥底に潜む狂気をフィルムに焼き付けた名作である。
- 監督/アルフレッド・ヒッチコック
- 脚本/ロバート・E・シャーウッド、ジョーン・ハリソン
- 製作/デヴィッド・O・セルズニック
- 制作会社/セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ
- 原作/ダフネ・デュ・モーリア
- 撮影/ジョージ・バーンズ
- 音楽/フランツ・ワックスマン
- 編集/ハル・C・カーン
- 美術/ライル・ウィーラー
- 衣装/アイリーン・レンツ
- 録音/ジャック・ウィットニー
- 三十九夜(1935年/イギリス)
- バルカン超特急(1938年/イギリス)
- レベッカ(1940年/アメリカ)
- 海外特派員(1940年/アメリカ)
- 逃走迷路(1942年/アメリカ)
- 汚名(1946年/アメリカ)
- ロープ(1948年/アメリカ)
- ダイヤルMを廻せ!(1954年/アメリカ)
- 裏窓(1954年/アメリカ)
- ハリーの災難(1955年/アメリカ)
- 知りすぎていた男(1956年/アメリカ)
- めまい(1958年/アメリカ)
- 北北西に進路を取れ(1959年/アメリカ)
- サイコ(1960年/アメリカ)
- 鳥(1963年/アメリカ)
- 引き裂かれたカーテン(1966年/アメリカ)
- フレンジー(1971年/イギリス)
- ファミリー・プロット(1976年/アメリカ)
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