2018/1/4

『ユージュアル・サスペクツ』(1995)伝説の脚本は本当に完璧なのか?

『ユージュアル・サスペクツ』(1995)
映画考察・解説・レビュー

5 OKAY

ユージュアル・サスペクツ』(原題:The Usual Suspects/1995年)は、港湾で起きた大規模爆破事件の真相を、取り調べ室で語られる証言を通して再構築していくサスペンス映画。虚実入り交じる回想が観客の視点を巧みに揺さぶり、伝説のギャング“カイザー・ソゼ”の正体へ迫る物語は、ラストの反転によって世界中を驚愕させた。伏線の積み上げと映像の細密な構成が高く評価され、第68回アカデミー賞脚本賞を受賞した名作である。

“信用”を奪い尽くす物語装置

『ユージュアル・サスペクツ』(1995年)は、90年代サスペンスの象徴として語られてきた。日本では公開当時「途中入場お断り」の完全入れ替え制で上映され、観客に箝口令すら敷かれた。

その過剰なまでの“秘密主義”は、映画そのものがひとつのイベント的興奮を帯びていた時代の空気も反映している。しかし本作を静かに見つめ直すと、称賛の多くが“語りの仕組み”に対する過剰な信頼に支えられていることが分かる。

クリストファー・マッカリーの脚本は、証言が映像化されるという語りの構造をメインギミックとして設計している。重要なのは、語り手=ヴァーバル(ケビン・スペイシー)が実は伝説的犯罪者カイザー・ソゼ本人であり、彼の口から紡がれる回想の大部分が虚構だった、という一点にある。

この構造によって物語は二重化され、語りの“信用”は最初から地盤沈下している。それは映画的快楽の中核であると同時に、作品の自己破壊装置としても働いている。

なぜなら、この形式ではどれだけ整合性が破綻していようとも「全部ウソだから」という世界線で成立してしまうため、映像の“信用可能性”そのものが後景化する。

映画はフラッシュバックという形式を借りながら、映像=事実という約束を巧妙に裏切り続ける。通常、映画が提示するカットは“客観的記録”として観客の視覚に定着するが、本作ではその機能が意図的に溶かされ、語られる映像が虚偽なのか事実なのか、判別するための地図が最初から奪われている。

ここで語りと映像の関係は、真実を照射するものではなく、語り手の操作によって形を変える“可変的な記号”へと落とし込まれていく。映画が観客に委ねるのは、“何が起きたのか”ではなく“何を信じていたのか”という信用の問題である。

これはサスペンスの外側にある、もっと広いレベルの不安を生む。観客は“映像の虚構化”を前にして、物語の外周で立ち尽くすしかなくなる。

虚構と客観の境界が消えるとき

語り手の主観が映像を作るという構造は、古典的トリック──アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』など──でも採用されてきた。しかし『ユージュアル・サスペクツ』が問題を抱えるのは、その“主観映像”と“客観映像”を映画的に区別できないまま混ぜ合わせている点だ。

ヴァーバルの供述がそのまま映像化されるとき、観客はそれを“彼の脳内イメージ”として受け取るしかない。ところが映画はその虚構性を視覚的に差別化しないため、事実とホラの境界が溶け、映像の座標軸が曖昧になる。

これはあえて“境界線を消す”ための演出なのか、それとも語りと映像の設計がズレた結果なのか、解釈は分かれる。だがいずれにせよ、この曖昧性が作品の“最大の弱点”として作用するのは間違いない。

特に象徴的なのが終盤のサン・ペドロ埠頭のシーンだ。ロープの束を意味ありげに映すショットは、観客に「ここにヴァーバルが隠れているのでは?」という印象を与えつつ、実際には彼が船に向かいキートンを殺していた、という構造を示唆している。

しかし、映画の中で“ねつ造ショット”と“客観ショット”が区別できなければ、その示唆も成立しにくい。意味ありげな伏線が、語りのねつ造ロジックに溶けてしまい、サスペンスの機能として結実しないのだ。

さらに冒頭の描写では、カイザー・ソゼが左利きであることが武器や動作から露見する。この時点で左半身不随を装うヴァーバルの怪しさはかなり濃く、その指標を読み取る観客に“真犯人の影”が早々に見えてしまう。

映画は“語りの罠”を物語の核心に据えながら、映像のディテールが逆にトリックを減衰させるという逆説的状況を抱えている。語りの世界線を自由に操作できる構造は、本来なら作品全体を包む巨大なフェイクの機能を果たすはずだ。

だが映像的根拠の散らばり方が均質でないため、フェイクの輪郭は薄れ、構造の意図と視覚情報が微妙に噛み合わない。ミステリ的緊張が持続するためには、虚構と事実をつなぐ“揺らぎのルール”が必要だが、本作ではその設計が完全には機能していない。

サスペンスの文法と比較されるべき“語りの精度”──何が欠けているのか

『ユージュアル・サスペクツ』が神話化される一方で、脚本の精度という観点から見ると、ビリー・ワイルダー『情婦』やジョージ・ロイ・ヒル『スティング』といった古典的名作に比べて、構造の強度は大きく劣る。

『情婦』は語りの裏切りを演劇的構造の中で緻密に調律しており、虚偽と事実の反転が“語りの必然性”として機能する。『スティング』は詐欺そのものを映画的文法の中心に置き、観客の信用を巧妙に攪乱するための編集リズムが徹底している。

これらの作品では、構造が“世界のルール”と一致し、そのルールが観客の認識を支える。しかし『ユージュアル・サスペクツ』の場合、語りの信用性を壊すためのギミックが世界のルールと十分に連動していない。

虚構を成立させる“地面”がないまま、ねつ造の塔を積み上げてしまったような印象すらある。語りの破綻がテーマ化されているにもかかわらず、その破綻が作品世界のシステムに自然に埋め込まれていないため、ねつ造が“ねつ造のためのねつ造”として浮いてしまうのだ。

観客はラストで衝撃を受けるどころか、「そうだろうな」と予測しながら見続けることすらできてしまう。これはサスペンスとして致命的だ。語りが虚構を生むなら、その虚構が“論理の外側”ではなく“作品内部のロジックの延長”として立ち上がらなければならない。

その接合が弱いがゆえに、本作はサスペンスとしての精度よりも、“語りの形式”そのものの奇抜さで語られ続けてきたとも言える。そして最後に付け加えるなら、“紛らわしさ”の頂点に立つ別作品『アンユージュアル・サスペクツ』(2006年)は、まったく関係のないハウス・ミュージック誕生のドキュメンタリーである。

こうしたズレも含め、本作が時代の中でどのように読み替えられ、神話化されてきたかを考えるのも興味深い。語りの信用が崩れるとき、物語は一種の虚無に転じる。『ユージュアル・サスペクツ』はその虚無を、サスペンスの形を借りて提出した作品だった。

FILMOGRAPHY