HOME > MOVIE> デイ・アフター・トゥモロー/ローランド・エメリッヒ

デイ・アフター・トゥモロー/ローランド・エメリッヒ

ローランド・エメリッヒとアメリカ神話の崩壊──ディザスター映画が映すマッチョイズムとポピュリズム

『デイ・アフター・トゥモロー』(原題:The Day After Tomorrow/2004年)は、ローランド・エメリッヒ監督が手掛けたディザスター映画の代表作。『インデペンデンス・デイ』(1996年)、『GODZILLA/ゴジラ』(1998年)に続き、巨大都市ニューヨークを崩壊させるスペクタクルを描きながら、地球温暖化とアメリカ的マッチョイズムを批評的に映し出した。本レビューではネタバレを含めてストーリーを解説し、プロパガンダ性と贖罪性を帯びたエメリッヒ映画の本質を考察する。

ニューヨークへの執着

ローランド・エメリッヒは、ディザスター・ムービーの職人として知られるドイツ出身の映画監督である。『インデペンデンス・デイ』(1996年)では巨大宇宙船がニューヨークを一瞬で瓦解させ、『GODZILLA/ゴジラ』(1998年)では怪獣を上陸させて都市をパニックに陥れた。なぜ彼は繰り返しニューヨークを破壊の舞台に選ぶのか。

ニューヨークは、世界金融の中心であり、自由の女神を擁する「自由の象徴」であり、同時に多民族が共存するメルティング・ポットでもある。その崩壊は、アメリカ合衆国そのものの崩壊を寓意する。つまり、ニューヨークはスペクタクルの舞台としてだけでなく、アメリカという国家アイデンティティを凝縮した象徴なのである。

そして、彼がドイツ人監督であるという事実を踏まえると、そのイメージはさらに多層的な意味を帯びてくる。

エメリッヒはアメリカ社会の「内部」に生きる映画人でありながら、出自としては「外部」に位置する存在だ。ニューヨークは世界的なメトロポリスであり、アメリカという国家アイデンティティを凝縮した象徴。その都市の崩壊を繰り返し描くことは、アメリカの自己神話を内側から肯定する一方で、外部の視点から相対化する二重の働きを持っている。

さらにドイツという歴史的背景を考えれば、彼の映画には「帝国の興亡」への無意識的な関心が透けて見える。20世紀のドイツは自国のイデオロギーの暴走によって崩壊を経験した。ゆえにエメリッヒがニューヨークという象徴都市を破壊する映像は、アメリカ的マッチョイズムを賛美しつつ、その脆さや瓦解の可能性を示す寓話としても機能している。

つまり、ドイツ人監督が描くニューヨーク崩壊は、ハリウッド的スペクタクルの中に「外部者の冷徹な眼差し」と「歴史的記憶の反映」が刻み込まれている。エメリッヒのディザスター・ムービーが、単なる娯楽を超えてアメリカ映画の自己批評として読みうるのは、この二重性ゆえだろう。

プロパガンダとしてのディザスター

ローランド・エメリッヒの作品群は、一見すると単なる娯楽大作に見える。しかし、その背後には明確な政治思想が流れている。『インデペンデンス・デイ』における軍事力と科学技術の結合、『ゴジラ』における外来モンスターへの排撃、『パトリオット』における愛国心の称揚──これらはいずれもアメリカ的マッチョイズムを体現するものだ。

このマッチョイズムは、国民的団結を強調するという点で「ポピュリズム」と強く共鳴する。多民族都市が危機を前に一致団結する物語構造は、アメリカが掲げる「自由」や「民主主義」という普遍的理念を再確認させ、観客にカタルシスを与える。

だがその実態は、「分断を乗り越える」という理想を利用して、「アメリカこそが世界のリーダーである」という立場を補強するプロパガンダ的装置なのだ。

ポピュリズムは、エリートや体制に対抗する“人民の力”を強調するが、同時に「我々」という共同体を線引きすることで他者を排除する性質も持つ。

エメリッヒ映画に登場する「一致団結するアメリカ」は、外敵(宇宙人・怪獣・自然災害)を撃退することで共同体の結束を示すが、そこには「アメリカに従わない他者」を不可視化する危うさがある。エメリッヒのディザスター映画は、ポピュリズム的な「我々の勝利」を描くことで、アメリカ中心主義を再生産してきたのだ。

しかし興味深いのは、彼がドイツ人監督であるために、この「マッチョイズム+ポピュリズム」の構造を血肉からではなく、あくまで“技術として”導入している点。彼の映画はアメリカの自己神話を外部からなぞりつつ、その矛盾をも無意識的に露呈してしまう。

スペクタクルの快楽と罪悪感

ディザスター映画の本質は「破壊を楽しむ快楽」と「倫理的免罪」の両立にある。観客は都市崩壊を消費しつつ、それを正当化する筋立てを必要とする。

『インデペンデンス・デイ』では「侵略者を倒す正義」。『ゴジラ』では「自然外来の脅威への防衛」。『パトリオット』では「愛国心による戦いの正当化」。

こうした免罪装置があるからこそ、破壊の快楽は罪悪感を伴わずに受容される。そして重要なのは、エメリッヒ自身が必ずしも政治心情からこれを描いたわけではない、という点だ。彼は理念に基づく作家ではなく、ハリウッド的スペクタクルの技術を緻密に計算し、観客が快楽を得られる物語装置を配置する“職人”であった。

つまり、そこにあるのは政治的信念の表明ではなく、スペクタクルを最大化するための演出上の技術である。結果として映画はアメリカ的マッチョイズムやプロパガンダ性を帯びることになったが、それは必ずしもエメリッヒ自身の思想ではなく、彼が徹底して「技術に奉仕する映画作家」だったことの帰結なのである。

贖罪としての『デイ・アフター・トゥモロー』

しかし2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロによって状況は一変する。現実の都市崩壊が映画的想像力を凌駕し、エメリッヒ映画のスペクタクルは「現実に追い抜かれた」のである。もはや『インデペンデンス・デイ』の都市崩壊は無邪気なファンタジーとして語れなくなった。

エメリッヒ自身も、映画的イデオロギーと個人的イデオロギーを切り分けざるを得ない事態に直面する。

その転換点が『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)だ。テーマは地球温暖化。二酸化炭素排出による環境破壊を描いた本作は、京都議定書を拒否したブッシュ政権に対する明確なカウンターだった。

副大統領のキャラクターはブッシュを彷彿とさせ、ラストでの「I was wrong(私は間違っていた)」という告白は、アメリカ政治への痛烈な批判であると同時に、エメリッヒ自身の過去作に対する“謝罪”としても読める。

『デイ・アフター・トゥモロー』は、スペクタクルを持ちながらも、環境問題を通じてアメリカ的価値観を相対化した異色作であり、彼のフィルモグラフィーにおける贖罪映画であった。

その後の揺れ戻し

さらに言えば、エメリッヒのキャリアは『デイ・アフター・トゥモロー』で終わらない。『2012』(2009年)では宗教や国家を超えた「人類生存」がテーマとなり、アメリカ中心主義から一歩引いた。一方で『ホワイトハウス・ダウン』(2013年)では大統領を守る英雄譚が描かれ、再びマッチョイズム的ファンタジーへと揺れ戻す。

つまりエメリッヒの映画は、常に「アメリカを賛美する快楽」と「アメリカを批判する視点」の間で揺れ動いてきたのだ。そこには異邦人監督としての二重性──内部からアメリカを称揚しつつ、外部から批判する視点──が色濃く反映されている。

DATA
  • 原題/The Day After Tomorrow
  • 製作年/2004年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/124分
STAFF
  • 監督/ローランド・エメリッヒ
  • 製作/ローランド・エメリッヒ、マーク・ゴードン、トーマス・M・ハメル、ケリー・ヴァン・ホーン、ローレンス・イングリー、キム・H・ウィンサー
  • 脚本/ローランド・エメリッヒ
  • 製作総指揮/ウテ・エメリッヒ、ステファニー・ジャーメイン
  • 原作/アート・ベル、ホイットリー・ストリーバー
  • 脚本/ジェフリー・ナックマノフ
  • 撮影/ウエリ・スタイガー
  • 編集/デヴィッド・ブレナー
  • 音楽/ハラルド・クローサー
CAST
  • デニス・クエイド
  • ジェイク・ギレンホール
  • エミー・ロッサム
  • セーラ・ウォード
  • アージェイ・スミス
  • タムリン・トミタ
  • イアン・ホルム