『田園に死す』──母性と反逆のアンダーグラウンド
『田園に死す』(1974年)は、寺山修司が自らの記憶と幻想を重ねて描いた半自伝的映画である。映画監督「わたし」を中心に、母への愛憎、故郷への嫌悪、そして死のイメージが交錯する。現実と虚構が反転する中、観客は“映画を撮る映画”という構造の迷宮に引き込まれる。恐山、イタコ、白塗りの兵士らが現れ、生と死の境界が崩れていく。
寺山修司という“言語の怪物”
詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、俳優、作詞家、写真家、劇作家。そしてアングラ劇団「天井桟敷」の主宰。寺山修司という存在を一語で定義することは不可能だ。
肩書きの多さは、そのまま彼の分裂した内面の写し鏡である。言葉、身体、演劇、映像。あらゆるメディアを横断しながら、彼は常に「表現の外部」を求めていた。寺山とは、社会に回収されない言葉の断片そのものだった。
僕が初めて彼の映像に出会ったのは、ニューヨーク在住のテレビディレクターの家でのことだった。山のように積まれたビデオテープの中から、「これ、観たことある?」と手渡されたのが、寺山のショートフィルム。
真っ裸の少年を、半裸の女が弄ぶというアンチモラルな場面に、頭がクラクラするほどのエロスを感じた。それは官能というよりも、“禁忌への接続”だった。映像が倫理を越えた瞬間、寺山の世界は立ち上がる。
その後に観た『上海異人娼館/チャイナ・ドール』(1980年)は、寺山らしい倒錯美に満ちていたが、僕にはどこか形式的に思えた。絵画的な構図、耽美な照明、演劇的ポーズ。それらがエロスを消し去り、寓話的表現主義へと変質していた。彼が“人間の汚穢”を描こうとするほど、映像は洗練されすぎてしまう。
だが『田園に死す』(1974年)は違う。そこには理性では制御できない、生と死の混濁があった。『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)に続く第二作でありながら、寺山はすでに映画の外側に立っていた。
自らの作品を“語る”ことではなく、“暴露する”ことを選んだのだ。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)が純粋なアートとして夢の中に沈み込む作品だとすれば、『田園に死す』はその夢を破る悪夢である。
殺せない母、帰れない故郷──“本籍地:新宿区新宿字恐山”
『田園に死す』は、映画の中で映画を撮る構造をとる。前半部が実は主人公=映画監督「わたし」の自伝映画であることが明かされ、三上寛が観客に直接怒鳴りかかる。
画面の中と外、現実と虚構が反転する。映画が「自分が映画である」ことを自覚し、観客をその構造の中に巻き込む。寺山はフィクションの衣を剥ぎ取り、スクリーンを“自分自身の解剖台”として提示する。
そこに流れるのは、寺山自身の記憶だ。母親への愛と憎悪。閉鎖的な故郷への嫌悪。死神の老婆、恐山のイタコ、白塗りの兵士、ててなし子を孕んだ村娘──これらのモチーフは、彼の内的トラウマが具象化した亡霊たちだ。
映画の空間は外部を持たず、そこにいる者たちは永遠に同じ地平を彷徨う。寺山の映像は、外部への逃走を拒む密室の夢であり、彼自身の脳内に閉じ込められた循環回路だ。
『田園に死す』の核心にあるのは、母親との確執である。息子を溺愛する母、束縛から逃れられない息子。彼は「母を殺したい」と語りながら、ついにそれを成し遂げられない。
寺山が吐き出す「本籍地:東京都新宿区新宿字恐山」という独白は、死者の国と都市の雑踏が同一化した地点に自己を置くという宣言だ。故郷=恐山、現在=新宿。そこに横たわるのは、近代日本が抱える“生と死の断絶”である。
寺山にとって、母とは国家であり、記憶であり、そして日本そのものだった。殺せば自分も消える。だから彼は殺さない。代わりに、映画という装置の中で永遠に“母殺しを繰り返せない男”を演じ続ける。
新宿の喫茶店で母と食事をするシーンは、その不可能性の可視化だ。現実の中に虚構を置くのではなく、虚構の中に現実を召喚する。母の存在は、寺山映画の永遠のノイズであり、そこから逃れることこそが彼の創作の衝動だった。
映像の胎内回帰
物語の終盤、少年時代の「わたし」(高野浩幸)が、ててなし子を産んだ村娘に無理やり犯される。そこに描かれるのは、聖と俗、被害と加害、母と娼婦、現実と幻想の混線だ。
そのイメージを観ると、かつて私が体験したショートフィルム──真っ裸の少年と半裸の女たち──の記憶が蘇る。寺山の映画とは、観客の無意識を掘り起こすトリガーであり、個人的な記憶を暴走させる装置である。
『田園に死す』は、倒錯やアングラ趣味を超えた“自分探し”の映画だ。だがその「自分」とは、社会におけるアイデンティティではなく、意識の最下層に沈殿した“見る者としての自己”である。
観客は寺山の映画を観るのではなく、彼の夢を覗き込む。そしてその夢の中で、自分の幼年期や欲望が呼び覚まされる。
寺山修司は、現実を再現するのではなく、現実を再び“夢として創造する”ために映画を使った。だからこそ彼の作品は、いま観てもなお不穏で、若々しく、そして痛ましい。
『田園に死す』とは、母の胎内に戻るための映画であり、同時にそこから二度と出られない映画である。
- 製作年/1974年
- 製作国/日本
- 上映時間/102分
- 監督/寺山修司
- 製作/九条映子、ユミ・ゴヴァース、寺山修司
- 原作/寺山修司
- 脚本/寺山修司
- 企画/葛井欣士郎
- 撮影/鈴木達夫
- 音楽/J・A・シーザー
- 美術/粟津潔
- 助監督/国上淳史
- 照明/外岡修
- 高野浩幸
- 八千草薫
- 春川ますみ
- 新高恵子
- 斎藤正治
- 原田芳雄
- 小野正子
- 高山千草
- 原泉
- 三上寛
- 中沢清
- 粟津潔
- 木村功
- 菅貫太郎

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