『ハリーの災難』(1955)
映画考察・解説・レビュー
ハリーの災難(原題:The Trouble with Harry/1955年)は、サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコックが、「死体」を恐怖の対象ではなくユーモアの源泉として描いた異色のブラック・コメディ。バーモント州の燃えるような紅葉美の中、死体遺棄を巡る住民たちの右往左往を牧歌的なタッチで綴る。本作が銀幕デビューとなるシャーリー・マクレーンの奔放な魅力と、バーナード・ハーマンによる軽妙なスコアが、不謹慎極まりない物語をシュールな寓話へと昇華させている。
美しい死体と、愉快な音楽
秋だ。画面いっぱいに広がるのは、息を呑むほどに鮮やかなバーモント州の紅葉である。テクニカラーの極致とも言えるこの美しい風景の中に、男が一人寝転がっている。名前はハリー。彼は死んでいる。
だけど、誰も叫ばないし、誰も警察を呼ばない。それどころか、第一発見者の少年は「ウサギじゃないのか」と興味を失い、通りがかりの画家に至っては、その死体をスケッチの構図の一部として吟味し始める始末。
アルフレッド・ヒッチコック監督の『ハリーの災難』(1955年)こそは、サスペンス映画の皮を被った、道徳の破壊工作だ。ふつう、映画において死体とは悲劇や恐怖の象徴のはず。
しかしこの映画の登場人物たちは、死体を見下ろしながら、まるで粗大ゴミを出し忘れた朝のような顔で困り果てている。彼らは罪悪感に苛まれるどころか、あくまで「処理の手間」として死体を捉えているのだ。この圧倒的な軽さ!死の尊厳など、ここには微塵も存在しない。
この狂った世界観を支えているのが、ヒッチコックの異常なまでの映像への執着だ。撮影当時、バーモント州はあいにくの悪天候に見舞われた。暴風雨で自慢の紅葉がほとんど散ってしまったのだ。
するとヒッチコックは、「葉がないなら、付ければいいじゃないか」とばかりに、なんと数千枚の石膏の葉を木々に貼り付け、地面には塗装し直した落ち葉を敷き詰めた。
もはや狂気の沙汰。しかしその結果、画面に映し出される秋の風景は、現実以上に鮮やかで、どこかプラスチックのような人工的な美しさを放つことになった。
この作り物めいた美しさこそが、死体が転がっているという異常事態を、シュールな絵画へと昇華させている。死体もまた、塗装された枯れ葉と同じく、配置されたオブジェクトに過ぎないことを、映像そのもので語っているのだ。
後に『サイコ』(1960年)で、観客を恐怖のどん底に突き落とすことになる天才作曲家バーナード・ハーマンがここで奏でているのは、なんとものどかで、間の抜けたスケルツォ。ファゴットやクラリネットといった木管楽器が、ポコポコとユーモラスなリズムを刻む。
美しい死体と、愉快な音楽。この不協和音こそが、我々の倫理観を麻痺させ、いつの間にか死体遺棄を応援させてしまうヒッチコック・マジックの正体だ。
ローアングルから見上げる、ハリーという名の障害物
この映画は異常なまでに足元に執着している。映画の冒頭、カメラは地面すれすれのローアングルから、ハリーの死体を捉える。そこで我々の目に飛び込んでくるのは、ハリーの顔ではなく、巨大な靴だ。
広角レンズによって遠近感が強調され、ハリーの靴は画面の手前で異様に大きく歪んでいる。まるで、我々の行く手を阻む巨大な岩のように。
おそらくヒッチコックは意図的に、ハリーから人格を剥奪している。顔(=人間性)を遠くに追いやり、靴(=物体)を強調する。これにより、ハリーは「かつて生きていた人間」から、単なる「つまずきそうな障害物」へと完全に変貌する。この、冷徹なまでの客体化!
さらに劇中では、浮浪者がハリーの靴を盗み、死体の足が無様な靴下姿で晒されるシーンがある。靴を失うということは、社会的な威厳の完全なる喪失を意味する。
スーツを着た紳士が、靴下で野原に転がっている姿ほど滑稽なものはない。ヒッチコックのサディスティックな視線が炸裂している瞬間だ。
その靴に対して強烈なアクションを起こすのが、本作が銀幕デビューとなったシャーリー・マクレーン演じるジェニファー。彼女はハリーの頭を、靴で殴ったと告白する。ナイフでも銃でもなく、最も日常的で、最も泥臭い靴。ここにはロマンのかけらもない。あるのは、生活感溢れる暴力だけだ。
当時のハリウッド女優といえば、グレース・ケリーに代表されるクール・ビューティーが主流だった。だが、マクレーンはショートカットで、あけっぴろげで、どこか少年のよう。
夫の死体を前にしても涙一つ見せず、「あら、死んでるわ」とでも言いたげな顔でレモネードを欲しがる。ヒッチコックが彼女に言った「君には銀行強盗のような度胸がある」という言葉は、最大級の賛辞だ。
彼女が演じるジェニファーにとって、死体は恐怖の対象ではなく、せいぜい「片付けなくてはならない部屋の散らかり」程度のことなのだろう。現代の我々が見ても痛快なほどのアンチモラルが、彼女の笑顔によって肯定されてしまう。
広角レンズで歪んだ靴のアップと、それを平然とまたいでいくマクレーンの軽やかな足取り。「重たく動かない死体」と「軽やかに動き回る生者」。足元の演出一つで、ヒッチコックは生と死の残酷なまでのコントラストを描ききっている。
死体だけが許された永遠のバカンス
タイトルの『The Trouble with Harry』は、直訳すれば「ハリーに関するトラブル」だが、ここには英語特有の痛烈なダブルミーニングが隠されている。”Harry”(ハリー)と”Hurry”(急ぐ)の対比だ。
映画の中の登場人物たちは、常に何かを急いでいる。死体を隠しては掘り起こす徒労を繰り返す。まさに “In a hurry”(急いでいる)状態だ。
しかし、当のハリーはは微動だにしない。青空の下、美しい紅葉に囲まれて、誰よりも優雅に寝そべっている。彼はもう二度と急ぐ必要がないのだから。
この映画の真のトラブルとは、ハリーが引き起こしたものではない。生きている人間たちが、勝手に忖度し、勝手に怯え、勝手に走り回っている独り相撲こそが、トラブルの正体なのだ。ハリーはただそこに「在る」だけ。彼は、あくせくと生きる人間たちを、足元の靴の隙間から笑っているのかもしれない。
英語圏で「Tom, Dick, and Harry」と言えば、「どこにでもいる平凡な人々」を指す慣用句だ。ヒッチコックがあえて死体にハリーという平凡極まりない名前を与えたのも、決して偶然ではないだろう。
「これは誰の物語でもない、あるいは誰の物語でもあり得る」という皮肉。英雄でも悪党でもない、ただのハリー。だからこそ、彼の死は悲劇にならず、日常の延長線上にあるハプニングとして処理される。
公開当時、アメリカでの興行は大失敗に終わった。だが、海を渡ったヨーロッパ、特にフランスでは熱狂的に迎えられた。フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールといったヌーヴェルヴァーグの若き天才たちは、この映画に込められた自由と、反骨精神を見逃さなかった。アメリカ人が眉をひそめたその不謹慎さこそが、映画というメディアを道徳から解放する革命だったのだ。
『ハリーの災難』は、ヒッチコックが仕掛けた、時代を先取りしすぎた極上のブラックジョークなのである。
- 監督/アルフレッド・ヒッチコック
- 脚本/ジョン・マイケル・ヘイズ
- 製作/アルフレッド・ヒッチコック
- 原作/ジャック・トレヴァー・ストーリー
- 撮影/ロバート・バークス
- 音楽/バーナード・ハーマン
- 編集/アルマ・マックローリー
- 美術/ハル・ペレイラ、ジョン・B・グッドマン
- 衣装/イーディス・ヘッド
- 録音/ハロルド・ルイス、ウィンストン・レヴェット
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