『CURE』(1997)
映画考察・解説・レビュー
『CURE』(1997年)は、黒沢清監督によるサイコ・サスペンスの金字塔。連続猟奇殺人事件を捜査する刑事・高部が、記憶喪失の放浪者・間宮と出会い、不可解な事件の真相に迫る物語。尋問の中で浮かび上がる人間の暴力と“癒し”の関係が、やがて彼自身をも巻き込んでいく。日常という薄皮一枚の下にある狂気、そして「癒し」という言葉が内包する真の恐怖を、冷徹かつ静謐な映像美で描き出した傑作
世紀末の毒とペルソナの皮剥ぎ
1997年という年は、日本映画史における特異点である。
この年、宮崎駿は『もののけ姫』(1997年)において、近代化する人間社会と荒ぶる神々の殺し合いを描き、タタリ神という不条理な呪いを受けたまま、それでも血を吐いて生きろと観客を恫喝した。
一方、庵野秀明は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』(1997年)において、他者との痛みを回避するために全人類の魂を一つに溶かす「人類補完計画」を発動させ、個人の輪郭を強制的に液状化させることで世界を終わらせた。
「生きる呪い」と「個の消滅」。この二つの巨大な絶望と対峙するように、黒沢清は『CURE』によって、オウム真理教事件(1995年)以降の日本社会に蔓延していた空虚さを、完璧な形で映像に定着させてしまった。
当時、ワイドショーや週刊誌はこぞってマインドコントロールや洗脳という言葉を消費し、人間がいかに他者によって操作されうるかという恐怖を煽っていた。だが、黒沢清が本作で提示したのは、そんな図式への痛烈なアンチテーゼである。
連続する猟奇殺人、犯人たちの不可解な動機、そしてそれを追う刑事。物語の構造は一見、『羊たちの沈黙』(1991年)や『セブン』(1995年)のようなサイコ・サスペンスの系譜にあるように見える。
だが、主人公の高部(役所広司)が対峙するのは、記憶喪失の放浪者・間宮(萩原聖人)という、徹底的に空っぽな存在だ。間宮はのらりくらりと核心をかわし、逆に「あんた、誰?」と問いかける。
このシンプル極まりない問いこそが、高部が必死に維持してきた良き夫という社会的仮面(ペルソナ)に亀裂を入れるハンマーとなる。
ユング心理学において、ペルソナとは社会に適応するために個人が演じる役割のこと。高部はその役割と自己を同一化させることで、精神を病んだ妻への殺意や、社会への憎悪といったシャドウをギリギリのところで抑圧していた。
間宮は洗脳者ではない。彼は触媒であり、相手の心の奥底に眠る欲望をノックし、鍵を開けるだけの存在だ。だからこそ、彼は誰にでもなりうるし、誰でもない。彼が劇中で見せるつかみどころのない態度は、彼自身が他者の狂気を反射させる「鏡」であることを示している。
ここで見逃してはならないのが、大杉漣演じる刑事部長の存在だ。彼の頭に乗った不自然極まりないカツラ。あれは権威や常識、あるいは社会的な立場というものが、いかに滑稽で、ズレたペルソナであるかを示す、黒沢清流の残酷なメタファーだ。
間宮の問いは、カツラを被った刑事部長のような「制度の奴隷」たちには届かないが、高部のように理性と狂気の境界線で踏ん張っている人間には、致命的な毒として作用する。
この映画が描く恐怖の本質は、犯人が異常であることではなく、正常だと思われている私たち自身の理性が、あまりにも脆いガラス細工であるという事実を突きつけられる点にあるのだ。
「CURE(癒し)」という名の暴力
本作のタイトル『CURE』を直訳すれば、治療、癒し、矯正といったところか。
だが、この映画における癒しとは、精神的な平穏や社会復帰のことではない。むしろそれは、道徳からの解放=殺人であり、社会的な倫理コードを破棄することで得られる、動物的な全能感の回復を意味している。
間宮が使う手法は、現代的な催眠術というよりも、18世紀の医師フランツ・アントン・メスメルが提唱した動物磁気説(メスメリズム)の儀式に近い。
ライターの揺れる火、コップから溢れ落ちる水、そして単調に繰り返されるリズム。これら原始的な刺激を用いて、彼は対象者をトランス状態へと誘う。
メスメリズムはかつて、科学とオカルトの境界にあった治療法であり、人間の体内にある流体を操作することで病を治すとされた。間宮はまさに、現代人の体内で鬱積し、澱んでしまった殺意という名の流体を、殺人という行為によって外部へ放出させようとする、闇の医師なのだ。
劇中、精神科医の佐久間(うじきつよし)が、間宮の研究にのめり込み、最終的に自死を選ぶプロセスは象徴的。彼は精神医学という理性の砦に立て籠もろうとしたが、間宮の論理に触れ、自分の中にある狂気を理解してしまった。
彼にとっての自死は、殺人者になることを拒絶するための、最後の理性の抵抗だったのかもしれない。あるいは、それこそが彼なりのCURE(解放)だったのか。
対して、高部は最終的に一線を超える。ラストシーン、妻を殺害し、ファミレスで平然と食事をする姿。かつてはストレスで胃を病み、何も食べられなかった彼が、タバコをふかし、肉料理をきれいに平らげる。彼は狂ってしまったのではなく、完全に健康(CURE)になったのだ。
社会的な倫理、家族への責任、刑事としての職務。それら全ての重荷を捨て去り、自分の欲望に忠実な獣へと回帰した高部。この完食こそが、彼が人間性を喪失し、新たな伝道師として生まれ変わったことの証明だ。
狂気とは、社会という檻から抜け出すための、最も過激で、最も効率的な健康法なのだから。
廃墟と蓄音機が再起動する時間
黒沢清が現代的なサイコ・サスペンスを描くにあたり、徹底的にアナクロニズムな意匠を選び抜いていることは興味深い。
例えば、妻の中川安奈が入院する病院。そこは現代的な医療施設特有の清潔さや無機質さとは無縁の場所だ。古びた建築様式、剥げかけた壁、そして看護婦の制服もどこか前時代的。
ここでは“現在”という時間が停止し、“過去”が意図的に保存されている。空間そのものが一種の記憶装置として機能し、そこに足を踏み入れた者の深層心理に眠る、古い記憶を呼び覚ますように設計されているのだ。
間宮が見せる19世紀末の催眠術フィルムは、翌年公開される『リング』(1998年)の「呪いのビデオ」を想起させるが、その機能は根本的に異なる。
『リング』における映像が、見た者を無差別に殺すウイルスの“感染”メディアだとすれば、『CURE』における映像は、人間の深層意識の扉をこじ開けるための鍵だ。映像そのものが催眠的であり、スクリーンの向こう側にある“もうひとつの現実(無意識の領域)”へと観客を導く。
さらに象徴的なのが、物語の終盤、役所広司を決定的な解放へと導く蓄音機の存在だ。デジタルデータではなく、物理的な溝に刻まれた音。針が溝を擦るノイズ。
このアナログな機械から流れる音が、彼に究極の“癒し”を与えるという構図は、現代社会のデジタル的な情報操作とは対照的。明らかに黒沢はこの場面で、20世紀初頭の科学技術に潜んでいた魔術性を再発見している。
つまり、テクノロジーがまだ宗教的信仰や呪術と地続きだった時代への回帰であり、そこに科学とオカルトの境界を攪乱する映画という、黒沢的主題が横たわっている。
古典的装置への執着と廃墟への偏愛は、『CURE』以前の作品にも一貫して見られる黒沢清の刻印だ。例えば『地獄の警備員』(1992年)では、バブル期の華やかな都市開発の裏側にある老朽化した警備会社のオフィスが舞台となり、錆びついた鉄扉や不気味な非常灯が、現実の崩壊と暴力の侵入を暗示していた。
また『ドレミファ娘の血が騒ぐ』(1985年)では、廃校になった音楽学校のホールに残された古いピアノが、抑圧された欲望を呼び覚ます“記憶の遺物”として機能していた。
黒沢にとって過去の遺物や廃墟とは、近代化によって封印された時間を再起動させ、日常の裏側に潜む異界の扉を開くためのトリガーなのである。
『CURE』における蓄音機や廃病院は、現代人が忘却した魔術を蘇らせるための祭壇だ。劇中、常に鳴り響くゴォォォ……という低周波のドローン音は、この儀式のBGMであり、私たちの理性を麻痺させる。
被害者の首に刻まれた「X」の文字は、彼らが人間であることを辞め、モノとして処理されたことを示す消去マークだ。この映画が終わった後も、その「X」は私たちの日常に刻印され続ける。
黒沢清は、映像と音響という魔術を使って、スクリーンのこちらの世界までをも「CURE」しようとしているのかもしれない。
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