2017/12/8

『ミクロの決死圏』(1966)人体という宇宙、冷戦というメタファー

『ミクロの決死圏』(1966)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

『ミクロの決死圏』(1966年)は、脳内出血で倒れた要人を救うため、特殊潜航艇をミクロ化して人体内部へ送り込むという大胆な設定で描かれるSFアドベンチャー。冷戦下のアメリカを舞台に、科学者チームは限られた時間の中で血流や神経の迷路を進み、危険に満ちた体内を突破しながら治療の手がかりを探っていく。最新技術への期待と国家的使命が重なり合う中、彼らは迫りくる制限時間と予測不能な障害に立ち向かう。

冷戦時代の「科学と信仰」

『ミクロの決死圏』(1966年)は、’60年代SF映画の古典にして、科学と政治が最も密接に結びついた時代の産物である。

物語は、脳内出血を起こした要人を救うため、特殊潜航艇プロテウスをミクロ化し、人体内部に注入して治療を試みるという設定で展開する。だがその科学的ロマンの背後には、冷戦構造という巨大なイデオロギー装置が潜んでいる。

ひん死の要人は、アメリカに亡命しようとする東側の科学者であり、物語の発端は明らかに知の亡命=政治的転向を暗喩したものだろう。

ミクロ技術は本来、兵器の移送を容易にする軍事目的から開発されたもの。医療という「人命救助」の名目はその隠れ蓑にすぎない。つまりこの作品は、テクノロジーが常に戦争の影に寄り添っているという、20世紀科学史の宿命を映し出しているのだ。

リチャード・フライシャー監督はこのSF的設定を、単なる冒険譚としてではなく、「人体=国家」「免疫=防衛機構」という二重構造の寓話として描く。敵性分子=スパイを内部に抱えたチームが、人間の内部で戦う構図は、そのまま冷戦アメリカの自己矛盾の縮図である。

人体という“内なる宇宙”

本作最大の革新は、人体を「未知の惑星」として描いた点にある。血流の流れを宇宙空間のように見立て、赤血球がまるで恒星のように輝く。プロテウス号が移動するその軌跡は、宇宙船が銀河を航行するようなスペース・オデッセイ感を生み出す。

映像的にも、当時の特撮技術の粋を結集。特に、アーネスト・ラズロ撮影監督による光学合成の技術は圧巻なり。水槽の中に投射された蛍光素材、粘膜の透過光、血管壁の屈折率。それらが組み合わされ、人体という有機的空間が、無限に拡張する宇宙のような広がりを持つ。フライシャーは「外」ではなく「内」に宇宙を見出したのだ。

その意味で『ミクロの決死圏』は、『2001年宇宙の旅』(1968年)の前駆的作品とも言える。スタンリー・キューブリックが人類の外的進化を描いたのに対し、フライシャーは“人間内部の銀河”に焦点を当てた。これは「科学と宗教」「外界と内界」「宇宙と身体」という二項対立を接続する試みでもある。

だが、本作の記憶を強烈に焼きつけるのは、何をおいてもラクエル・ウェルチである。何がなんでもラクエル・ウェルチである。どう考えてもラクエル・ウェルチである。

バスト94・ウエスト58・ヒップ90というプロポーションにぴったりと貼り付くウェットスーツ姿は、理性を麻痺させるほどの視覚的暴力。もはや、エロスの決死圏。

医療チームという名のオヤジ集団の中に紅一点として参加し、密閉空間に閉じ込められる彼女の存在は、明らかに“フェティッシュの具現化”である。

抗体に攻撃されるシーンで、白い繊維状の物質が身体に絡みつき、それを男たちが取り除くという描写など、露骨なまでにエロティックな象徴として機能している。

この演出を単なるお色気と片づけてはならない。そこには“女性身体の科学的客体化”という60年代的視線が潜む。すなわち、科学の進歩の名の下に女性の身体を検査・解剖し、視覚的快楽へと還元する構造である。

ラクエル・ウェルチはSF的ロマンの象徴であると同時に、男性中心主義の欲望装置を可視化するアイコンでもあったのだ。

手塚治虫と「盗作」の倫理

この作品には意外な前史がある。もともとの発想は、手塚治虫の『鉄腕アトム』の一篇「細菌部隊」に由来するとされる。アメリカNBCが虫プロと契約し、『ASTRO BOY』として放送していたエピソードを20世紀FOXが無断で映画化したため、手塚は激怒した。

しかし興味深いのは、その後の手塚自身の態度である。彼は’80年代に企画・監修したアニメ『ワンダービート・スクランブル』(1986年)で、“体内突入による治療”という『ミクロの決死圏』の設定を再利用しているのだ。

つまり、盗作の被害者が後年自らを“再盗作”するという、倫理的パロディが生じている。手塚は「腹も立ったが、お互い様」と語っており、ここにもまた60年代的文化交流のグレーゾーンが見える。

この相互模倣の構図は、アメリカ映画が日本マンガを吸収し、それを再輸出するというグローバル・カルチャーの循環を象徴している。ここで重要なのは、単なる技術的アイデアの“流用”ではなく、想像力そのものの往還であるという点だ。

戦後の日本マンガは、ディズニーやフライシャー兄弟(リチャードではなくアニメーターのマックス・フライシャーの方)に代表されるアメリカン・アニメーションの影響下で育ち、それを手塚治虫が再構築した。つまり、手塚の「映画的コマ割り」や「カメラ的構図」は、もともとハリウッド映画の語法を日本的に翻訳したものだった。

ところが、その“日本的映画的表現”が再びアメリカに逆輸入され、今度は20世紀FOXのハリウッド映画として巨大なスケールで再生産される。『ミクロの決死圏』はその最初の循環点に位置している。つまり、アメリカが日本から借りたのはストーリーではなく、「視覚的な想像力」そのものだったのだ。

やがてこの往還は、『AKIRA』(1988年)や『攻殻機動隊』(1995年)を経て、『マトリックス』(1999年)や『インセプション』(2010年)といったアメリカ映画の中で再び結実する。ひとつのイメージが国境を越えて再利用されるたびに、文化は“翻訳”と“誤読”を繰り返しながら進化していく。

したがって『ミクロの決死圏』とは、単なるSF的発明ではなく、日米双方のポップカルチャーが互いを鏡像として見つめ合った最初の交差点であり、以降の半世紀にわたるカルチャー・リサイクルの出発点だったのである。

科学の夢、そしてその代償

本作のラストで、プロテウス号は脱出できず、人体の内部に取り残される。科学の探究心が、生命の神秘に踏み込みすぎた末の帰結である。だがその犠牲をもって、ミッションは成功し、人間は生き延びる。ここには、科学が人間を救うと同時に、人間を超えていくというパラドックスがある。

フライシャーはSFという形式を借りて、人間存在そのものの境界を問う。外的宇宙を探索する映画が“進歩の夢”を描いたのに対し、内的宇宙を航行するこの映画は、“人間とは何か”という哲学的回帰を描く。

そして、その哲学の中心に、ラクエル・ウェルチという“肉体の象徴”を据えることで、科学のロマンと官能の倒錯を見事に共存させた。

後年、ジョー・ダンテ監督の『インナースペース』(1987年)がこのコンセプトをコメディとして再解釈したのは、時代がもはや科学を神話として信じていなかったからだ。

だが『ミクロの決死圏』が持つ〈科学への信仰〉と〈身体への畏怖〉のバランスは、60年代という時代の輝きをいまなお放っている。

FILMOGRAPHY