ポスト冷戦の黙示録と殉教する母性
『エイリアン3』(原題:Alien³/1992年)はデヴィッド・フィンチャーの長編映画デビュー作。刑務所惑星を舞台に、母性喪失と殉教を描く宗教的寓話としてシリーズを異端へと導いた。本レビューでは物語の解説と批評的考察を行い、その文化的・時代的意味を読み解く。
『エイリアン』シリーズの変遷
間違いなくリドリー・スコットの『エイリアン』(1979年)は、宇宙空間という極限の閉鎖環境を舞台に、未知の恐怖と人間の脆さを描いたSFホラーの金字塔だ。
映画史的に見れば、1970年代後半は『ジョーズ』(1975年)や『スター・ウォーズ』(1977年)に端を発する「ブロックバスター時代」の幕開けであり、ハリウッドは新しい映像的快楽を模索していた。
そのなかで『エイリアン』は、ホラーの構造をSFに移植し、エレン・リプリーという主人公像を提示した点で革新的だった。批評家キャロル・J・クローバーが提唱した「ファイナル・ガール」概念を先取りするかのように、彼女はシリーズを協力に牽引する存在へと成長する。
続く『エイリアン2』(1986年)では、ジェームズ・キャメロンがホラーから火器満載アクションへと大転換を試み、さらにニュートという少女を守る母性の物語を中心に据える。
1980年代という軍拡主義(ロナルド・レーガン政権下における強いアメリカの復活、戦略防衛構想(SDI)の推進)と保守的家族主義の時代背景を映し出すかのように、リプリーは「戦士である母」として描かれた。母性は戦闘能力と結びつき、女性キャラクターは単なる犠牲者でも母なる聖女でもなく、積極的に戦いに加担する主体として再定義されたのである。
宗教色の強いパート3へ
そして1992年の『エイリアン3』は、この流れをさらに大きく裏切る。これが劇場用映画デビューとなるデヴィッド・フィンチャーは、パート1のような「ホラーの深化」でもパート2のような「アクションのさらなる拡大」でもなく、荒涼とした刑務所惑星を舞台とする宗教色の強い作品に仕立てたのだ(フィンチャー自身は雇われ監督の身であり、彼の選択ではないのだが)。
シリーズの3作目として、この方向性は明らかに異端。当時の批評や観客からは賛否が大きく分かれたが、この異質さこそが本作を興味深い位置へと押し上げている(と思う)。
『エイリアン3』の映像表現は、後のフィンチャー作品を予感させるものだ。四つ足で疾走するエイリアンを広角レンズで追い、観客に追体験させるカメラワークは斬新そのもの。しかしその実験性が行きすぎた結果、空間的把握が難しく、緊張感が曖昧になる場面も散見される。
『セブン』(1995年)や『ファイト・クラブ』(1999年)で完成されることになる「映像過剰と物語構造の均衡」が、この時点ではまだ成熟していなかった。製作現場での脚本難航やプロデューサーとの対立も相まって、フィンチャーの意図と最終アウトプットの乖離が、本作の評価を複雑にしている。
母性と暴力の関係をめぐるラディカルな寓話
物語的にもっとも衝撃的なのは、前作『エイリアン2』で守り抜いたニュートの死だろう。キャメロンが築いた「母性神話」を、フィンチャーは冒頭で即座に打ち砕く。母性の対象を失ったリプリーは、精神的空洞を抱え、生きる意味さえ見出せない。
ここで描かれるのは、母としての役割を奪われた女性の孤独と虚無だ。リプリーが最終的に自己犠牲を選ぶのは、単なる物語上のクライマックスではなく、「母性を喪失した女性が、殉教者として人類に奉仕する」という象徴的な構造を備えている。
リプリーの胎内に、エイリアンの幼生が寄生しているという設定も象徴的だ。母胎という最も親密で安全な場所に潜む異物は、忌避すべき恐怖であると同時に、切り離せない内的他者でもある。
エイリアンはもはや外敵ではなく、リプリーの内面と一体化した存在。リプリーはそれを拒絶することも、受け入れることもできず、唯一の選択肢として「共に死ぬ」ことを選ぶ。この構造は、女性身体と他者、母性と暴力の関係をめぐるラディカルな寓話といえる。
宗教的・黙示録的なイメージ、ジャンヌ・ダルクの殉教
この映画を理解するためには、1990年代初頭という時代背景を無視することはできない。冷戦の終結により、アメリカ社会は明確な敵を失い、漠然とした不安や内的空洞に直面した。世紀末というタイミングとも重なって、ハリウッド映画はこの不安をしばしば宗教的・黙示録的イメージによって表象した。
『ターミネーター2』(1991年)が「審判の日」を予告し、『セブン』(1995年)が「七つの大罪」に基づく終末的犯罪を描いたように、『エイリアン3』もまた贖罪と殉教の物語として時代の空気を反映している。刑務所惑星という舞台は、外敵から隔絶された終末共同体を想起させ、そこに降臨するリプリーは殉教者として人類の罪を引き受ける存在となる。
クライマックスでリプリーが自らを溶鉱炉に投じる場面は、シリーズの中で最も宗教的な瞬間だ。胎内の異物を抱えたまま死を選ぶ彼女は、個人としての母性を超え、人類全体の救済者としての「聖母」へと昇華する。まるでジャンヌ・ダルクが殉教したように。ホラーの「生存者」、アクションの「戦士的母」、そして『エイリアン3』での「殉教する母」という三段階の変容が、ここに完成する。
母性・贖罪・殉教をめぐる神話的物語の完成
『エイリアン3』は公開当時、観客の期待を裏切る「暗く救いのない作品」として批判を浴びた。しかし本作はフィンチャーの後の作風を予告するだけでなく、1990年代ハリウッドが共有していた終末的・宗教的想像力を先取りしていたといえる。
『セブン』の猟奇的寓話、『ファイト・クラブ』の男性性解体、『ゾディアック』の未解決犯罪への執念といったテーマは、すでに『エイリアン3』の中で萌芽している。そして何より、女性主人公が母性を喪失し、殉教者として自己犠牲に至る物語は、SF映画における女性像の可能性を大きく広げることになった。
『エイリアン3』はシリーズの「異端」にして「核心」である。リドリー・スコットの恐怖、ジェームズ・キャメロンのアクションを継承しながらも、デヴィッド・フィンチャーは宗教的寓話と黙示録的終末感を導入し、ポスト冷戦期の不安と虚無を象徴化した。
リプリーの死は、単なるキャラクターの終焉ではない。それは、母性・贖罪・殉教をめぐる神話的物語の完成であり、SF映画史における女性像の拡張を示すものなのだ。
- 原題/Alien3
- 製作年/1992年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/114分
- 監督/デヴィッド・フィンチャー
- 製作/ゴードン・キャロル、デヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒル
- 製作総指揮/エズラ・スワードロウ
- 原案/ヴィンセント・ウォード
- 脚本/デヴィッド・ガイラー、ウォルター・ヒル、ラリー・ファーガソン
- 撮影/アレックス・トムソン
- 音楽/エリオット・ゴールデンサル
- 美術/ノーマン・レイノルズ
- SFX/リチャード・エドランド、ジョージ・ギブス
- シガニー・ウィーヴァー
- チャールズ・ダットン
- チャールズ・ダンス
- ポール・マクガン
- ブライアン・グローヴァー
- ランス・ヘンリクセン
- ラルフ・ブラウン
- ダニー・ウェッブ
- ジョン・フィールズ
- ホルト・マッカラニ
![エイリアン3 [Blu-ray]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/616f773izmL._AC_-e1758347159907.jpg)


![セブン [Blu-ray]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51pdfgRSXfL.jpg)
![ターミネーター2 [Blu-ray]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81Bk4WurPL._AC_SL1500_-e1724881194758.jpg)