2025/11/21

『アイズ ワイド シャット』(1999)徹底解説|キューブリック遺作が暴く、欲望と狂気の仮面劇

『アイズ ワイド シャット』(1999)
映画考察・解説・レビュー

8 GOOD

『アイズ ワイド シャット』(原題:Eyes Wide Shut/1999年)は、アルトゥール・シュニッツラーの『夢小説』を現代に移し替えたスタンリー・キューブリックの遺作。抑圧された欲望と夫婦の心理的乖離を描きながら、ハリウッド的イノセンスを皮肉るように人間の本能と虚構を暴き出す。

キューブリックが一貫して描いていた主題、「狂気」

スタンリー・キューブリックは寡作の映画作家だったが、生涯を通じて様々な題材に挑戦し続けてきた。彼のフィルモグラフィーは実にバラエティーに富んでいる。

現金に体を張れ』(1956年) 犯罪映画
スパルタカス』(1960年) 歴史映画
『ロリータ』(1962年) 変態映画
『博士の異常な愛情』(1964年) コメディー映画
『2001年宇宙の旅』(1968年) SF映画
時計じかけのオレンジ』(1971年) 青春映画
バリー・リンドン』(1975年) 歴史映画
シャイニング』(1980年) ホラー映画
フルメタル・ジャケット』(1987年) 戦争映画

うーん、何とも多種多様というか、節操がないというか。しかし映画的アプローチは様々にしろ、キューブリックが一貫して描いていた主題は明快だ。それはズバリ、狂気である。

核戦争の危機に直面した軍人や、政治家たちの理性の欠如をブラックコメディとして描く『博士の異常な愛情』。アレックスという若者の暴力的衝動と、国家による矯正という社会的狂気が対比される『時計じかけのオレンジ』。孤立したホテルでジャック・ニコルソンが徐々に精神を蝕まれていく『シャイニング』。ベトナム戦争を舞台に、兵士たちが訓練と戦闘で精神を崩壊していく『フルメタル・ジャケット』…。

その意味で、セックスを主題にした『アイズ ワイド シャット』(1999年)は格好のテキストだろう。セックスほど人間を狂気の世界に陥れるものはないのだから。

映画史上においても例を見ない長期の制作期間

原作は、新ロマン主義を代表する作家アルトゥール・シュニッツィラーが1926年に発表した中編、『夢小説』。オーストリアの医師がウィーンの町で体験する、夢と現実がないまぜになったような不可思議な出来事を、幻想的な筆致体で綴った作品である。

夢がたり―シュニッツラー作品集
アルトゥール・シュニッツィラー

キューブリックは「幸せな結婚の性的な曖昧さ」を描いた本作の心理描写に強く魅力を感じ、1960年代初頭に映画化を決意。原作の舞台は20世紀初頭のウィーンだったが、キューブリックはこれを90年代ニューヨークに改変して、現代的な社会的コンテクストに適合させた。

撮影期間は、1996年11月から1998年6月までの15か月間(うち46週間は休みなしで撮影)。映画史上においても例を見ない、長期の制作期間となった。

主演のトム・クルーズは95回のテイクを重ねて精神的・肉体的に大きな負担を強いられ、ニコール・キッドマンも身体的露出や性描写を伴うシーンの撮影に多大な努力を払った。

さらにキューブリックは、俳優が演技に集中できるよう、セット内での過剰な会話を避けさせるなど、緻密な管理を行ったという。超ブラックな仕事環境である。

アメリカ的イノセンスの嘲笑

すでにこの映画に関しては、有名無名に関わらず一家言ある方々のレビューが巷に溢れている。「キューブリック的な倫理に貫かれた映画」とか、「これはキューブリック流のファミリー・ロマンス」とか、「夫婦という共同体の不確かさを描いた作品」とか、どれも興味深い考察ばかりだ。

確かにその通りだと思う。だがその一方で、「この映画ってコンテクストを追いかけても仕方ないのでは?」という疑問も頭をもたげてくる。僕には、トム・クルーズ&ニコール・キッドマン夫妻(当時)を、単に小馬鹿にしたいがための映画のように思えてならないのだ。

トム・クルーズ演じるウィリアム・ハーフォード医師は、薄っぺらなほどフラットで、コンサバティブで、最大公約数的なキャラクター。ニューヨークの上流階級に位置し、多少なりともマリファナもたしなみ、「虹のふもとに行きませんこと?」とパツキンのモデル2人組に誘われれば、フラフラと快楽の園へ足を向けてしまう。

キューブリックは、トムに典型的WASPを演じさせることによって、マネー・メイキング・スターとしてのオーラをいっさいがっさい剥奪してしまう。

『アイズ・ワイド・シャット』に映し出されるのは、妻から他人とのセックスの渇望を告白されるやいなや、エロティックな妄想に悩まされるダメダメ男の醜態なのである。

ニコール・キッドマンにも容赦なし。この映画では、下半身丸出しでトイレに腰掛けているシーンや、お尻丸出しで服に着替えているシーンや、脇をクンクン嗅いで体臭を確認してるシーンが満載。

きっとキューブリックは、ハリウッドの大女優に恥ずかしいことをいっぱいやらせて、色虐的に楽しんでいたに違いない。キューブリックは年老いてヒッチコック化した。もはやこれは映画という形をとったSMショーである。

>つまりキューブリックの目的は、映画界で最も成功を収めているトム・クルーズ&ニコール・キッドマン夫婦を、イギリスに46週間も拘束し、疑似空間で疑似夫婦を演じさせ、セックスを強要し、彼らが体現するアメリカ的なイノセンスを嘲笑することにあったのではないか。シニカルな視座で彼らをあざけり笑うことにあったのではないか。

だとすればこの映画は、単に内容の出来不出来いかんで推し量れる作品ではない。映画製作の実権を握れなかったため、生涯に渡って毛嫌いしてきた自作『スパルタカス』以降、アメリカを離れてイギリスでコツコツと映画製作にいそしんできた隠遁親父による、「ハリウッドへの逆襲」なのだ。

キューブリックは、『フルメタル・ジャケット』でハートマン軍曹を演じた旧友リー・アーメイとの電話で、「『アイズ・ワイド・シャット』はヒドい駄作だ」と愚痴ったという。

フルメタル・ジャケット
スタンリー・キューブリック

トム・クルーズとニコール・キッドマンという、スーパースターを完全にコントロール出来なかったことが原因らしいが、今となっては真相は闇の中。彼はこの映画の公開を待たず、70歳でこの世を去ってしまった。図らずも本作は彼の遺作となったのである。

キューブリックがニコール・キッドマンに託した最後の台詞は、ズバリ「Fuck」。おそらくこの遺言には、ハリウッド的価値観への批評であり、俳優と観客の双方に向けられた象徴的表現であるはず。死ぬまで頑固で皮肉屋だった彼らしい、見事な幕引きではないか。

FILMOGRAPHY