『スカイフォール』──母と子の闘争としてのボンド映画
『スカイフォール』(原題:Skyfall/2012年)は、ダニエル・クレイグ主演による007シリーズ第23作。任務中に消息を絶ったボンドが復帰し、MI6本部を狙うサイバー攻撃の犯人を追う中で、上官Mとの絆と過去が浮かび上がる。国家の危機と個人の記憶、忠誠と裏切りが交錯する中、ボンドは自らの原点〈スカイフォール〉で最終決戦に挑む。
シリーズ史における半童貞告白
正直に告白すると、僕は007シリーズに関しては半童貞状態である。ショーン・コネリー時代のクラシックな作品をいくつか齧った程度で、ロジャー・ムーアやティモシー・ダルトンの時代はすっかりスルー。ピアース・ブロスナンもまともに追ってこなかった。
にもかかわらず、この『スカイフォール』(2012年)には公開初日から劇場に足を運んでしまった。理由は単純、予告編があまりに期待感を煽り、そして何よりもスタッフ陣の顔ぶれが豪華すぎたからだ。
007シリーズは、冷戦期のマッチョなコネリー、洒脱さのロジャー・ムーア、シリアスなダルトン、90年代グローバル化のブロスナンと時代ごとにイメージを更新してきた。
そして21世紀、ダニエル・クレイグの登場は、暴力性とリアリズムの刷新だった。その三作目となる『スカイフォール』は、単なるスパイ映画の枠を超え、シリーズの「原点回帰」と「再生」を同時に提示する転換点となったのである。
豪華すぎるスタッフ陣──サム・メンデスとロジャー・ディーキンス
監督は『アメリカン・ビューティー』(1999年)でアカデミー賞を手にしたサム・メンデス。演劇出身の彼は、家庭や喪失、父性といったテーマを執拗に掘り下げる作家であり、『スカイフォール』でもその作風は健在だ。ボンドとMの母子関係、シルヴァの愛憎劇は、メンデス的家族ドラマの延長にほかならない。
撮影監督は巨匠ロジャー・ディーキンス。彼が描き出す映像は、光と影の彫刻そのものだ。上海の摩天楼での暗殺シーンは、ネオンの青と人影が幾何学的に交錯するグラフィカルな美。
軍艦島に広がる廃墟は、まさに死の風景詩。ディーキンスが加わったことで、『スカイフォール』は「アクション映画」というより「映像芸術」として成立している。
さらに主題歌はアデル。ヴィランを演じるのは『ノーカントリー』(2007年)のハビエル・バルデム。脇を固めるのはレイフ・ファインズ、アルバート・フィニー。これでもか!という布陣で、英国映画の底力を世界に誇示している。
冒頭からカーチェイス、バイクチェイス、列車での格闘と、つるべ打ちのアクションが続く。正直「どこかで観たような」既視感はある。しかしそれこそが重要で、ボンド映画は『インディ・ジョーンズ』、『ボーン・アイデンティティー』、『ミッション・インポッシブル』といった後続アクション映画に影響を与え、それが再び本家へ還流したのである。『スカイフォール』は、まさにその回帰宣言だ。
Qから渡されるのは伝家の宝刀ワルサーPPK。終盤にはアストンマーチンも登場。トム・フォードのスーツに身を包み、ボンドは常に上品な身のこなしを崩さない。過去と向き合う物語である以上、こうした「古き良き要素」の復活は必然であった。
母としてのM、ジョーカーとしてのシルヴァ
この映画の最大の特徴は、Mの立ち位置にある。ジュディ・デンチ演じるMは、もはや「ボンドガール」そのもの。若き美女セヴリンがあっさりと退場するのは衝撃的だが、物語の中心に座るのは老いた母性。Mは代理母としてボンドとシルヴァを育て、同時に組織のためには子を切り捨てる鬼母でもある。
Mは「国家=母」としての姿を体現する。MI6に仕える者は、愛情を注がれると同時に、容赦なく切り捨てられる。ボンドは「選ばれた子」として忠誠を誓い続けるが、シルヴァは「捨てられた子」として母への復讐に取り憑かれる。この非対称性が物語の核を成している。
興味深いのは、母性がグラマラスな若さではなく、老成した冷酷さとして描かれている点だ。ジュディ・デンチが担う「母としてのM」は、英国社会における母国イメージと重なる。つまり、『スカイフォール』は国家に愛される子と捨てられた子の闘争譚として読むことができる。
一方、シルヴァを演じるハビエル・バルデムは、『ノーカントリー』の狂気的殺し屋シガーをさらに膨張させた怪物だ。義歯を外すシーンの顔面崩壊、そしてそれを補う知性。拘束される姿は『羊たちの沈黙』(1991年)のハンニバル・レクターそのものである。
だがより直接的な参照点は、『ダークナイト』(2008年)のジョーカーだろう。ジョーカーが「無根拠のカオス」であるのに対し、シルヴァは「母に裏切られた子」という痛切な動機を抱えている。その人間的な弱さが、彼をより悲劇的かつ執拗な存在にしているのだ。
彼の攻撃はすべてMへの執着に収斂する。MI6本部の爆破も、議会襲撃も、最終的には「母のもとに帰る」ための手段にすぎない。つまり『スカイフォール』は、「母をめぐる三角関係」というシェイクスピア的な悲劇構造を007に持ち込んだ作品なのだ。
ボンド=忠誠の子、シルヴァ=復讐の子、そしてM=冷酷な母。この構図こそが本作を従来のスパイ映画以上のものに押し上げている。
脚本の粗と小道具の凡庸さ
もっとも『スカイフォール』が完璧な映画かといえばそうではない。この映画を一度観ただけで全貌を理解できる人間がいるとすれば、それはもはや神レベルの洞察力を持つ御仁だろう。実際、僕自身はどうしても腑に落ちない点がいくつもあった。
たとえば、マカオの高層ビルでフランス人傭兵パトリスが誰かを暗殺する場面。彼が絵画(モディリアーニ風に見える)に見とれていたのは何かのメタファーなのか? 殺された人物が誰なのかも判然としないし、その場にいたイヴの役割も曖昧なままだ。
また、軍艦島に向かうシークエンスでは、なぜボンドが丸腰のまま堂々と船首に立ち、あっさり捕まってしまうのか理解に苦しむ。もし作戦の一環だとしても、そのせいでイヴが命を落とす展開はあまりに無謀すぎる。
さらに不可解なのは、シルヴァがMI6にわざと捕まるくだりだ。データベースへの侵入が目的らしいが、その後の査問委員会への奇襲は驚くほど少人数で実行される。あれでは頭脳派どころか、場当たり的な無謀さにしか見えない。
極めつけは終盤。スカイフォールに向かう時点で大規模な戦闘になることは予想できたはずなのに、ボンドの武器の備えは驚くほど心許ない。演出意図は理解できるにしても、リアリティの欠如は否めない。
小道具の扱いも決して巧みとはいえない。指紋認証型ワルサーは結局一度も発砲されず役目を終えるし、Qが手渡す場面で先が読めてしまう。さらに小屋の管理人キンケイドが「最後に頼りになるのはこれだ」と差し出すナイフも、これがシルヴァを仕留める決め手になることがあまりに露骨で、サスペンスを削いでしまっている。細部のディテールに対する気配りが足りない印象は拭えないのだ。
映像美と官能性
それでもこの映画が圧倒的に魅力的なのは、サム・メンデスとロジャー・ディーキンスによる映像美だ。死の匂いが漂うアヴァンタイトル、巨大スクリーンを背に戦うシルエット、マカオの黄金色のカジノ、軍艦島の廃墟に立つボンド。どの場面も「官能的映像」としか言いようがない。
特に軍艦島でシルヴァがボンドに近づく長回しは、映画的恍惚の瞬間だ。脚本の粗さを凌駕するほどに映像が陶酔を生む。ここにこそ『スカイフォール』の真価がある。
007というポップ・アイコンを「母子悲劇」と「英国文化の寓話」に仕立て上げ、しかも映像美で官能的に包み込む。芳醇なワインのように渋みと深みを湛えた一本として、シリーズ史に確固たる地位を刻んだ。
…余談だが、妙にクレイグ版ボンドが弱々しく見えるのは、元カノのレイチェル・ワイズをサム・メンデスに奪われた腹いせでは?と妄想したくもなるのだが、それもまた007的ユーモアというべきか。
- 原題/Skyfall
- 製作年/2012年
- 製作国/イギリス、アメリカ
- 上映時間/142分
- 監督/サム・メンデス
- 製作/バーバラ・ブロッコリ、マイケル・G・ウィルソン
- 製作総指揮/カラム・マクドゥガル、アンソニー・ウェイ
- 原作/イアン・フレミング
- 脚本/ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ジョン・ローガ
- 撮影/ロジャー・ディーキンス
- 衣装/ジェイニー・ティーマイム
- 編集/スチュアート・ベアード
- 衣装/ジェイニー・ティーマイム、トム・フォード
- 音楽/トーマス・ニューマン
- ダニエル・クレイグ
- ジュディ・デンチ
- ハビエル・バルデム
- レイフ・ファインズ
- ナオミ・ハリス
- ベレニス・マーロウ
- アルバート・フィニー
- ベン・ウィショー
- ロリー・キニア
- オーラ・ラパス
- ヘレン・マックロリー
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