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『プライベート・ライアン』(1998)戦場を“再現”ではなく“体験”させた24分間

『プライベート・ライアン』(1998)
映画考察・解説・レビュー

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『プライベート・ライアン』(原題:Saving Private Ryan/1998年)は、スティーヴン・スピルバーグが監督し、トム・ハンクス、マット・デイモン、トム・サイズモアらが出演した第二次世界大戦を舞台とする戦争ドラマ。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦後のフランスで、ミラー大尉(トム・ハンクス)率いる小隊が、兄3人を戦死で失ったライアン二等兵(マット・デイモン)を救出する任務を命じられる。激戦の中で仲間が次々と倒れるなか、兵士たちは“たった一人を救うために多くが死ぬ”という矛盾と向き合い、戦場における命の重さを問い直す。ジョン・ウィリアムズが音楽を担当し、第71回アカデミー賞で監督賞ほか5部門を受賞した。

映像の強度を信じる映画作家

スティーヴン・スピルバーグは、物語に強度を求めない映画作家だ。というよりも、最初から放棄している。

彼が信じているのは、たぶん映像の強度だけだ。シネマという総合芸術をろ過して抽出するならば、そこに残るのは映画文法のみによって構築された、純然たるイメージのみ。

リュミエール兄弟が100年以上前に開発し、パリの紳士・貴婦人の肝をつぶした「シネマトグラフ」の映像的興奮を、彼は現代に復権させようとしているのだ。

『プライベート・ライアン』(1998年)は驚異的な映像体験である。これは戦争映画ではなく、戦場映画だ。「ママ、ママ」と絶叫し、ちぎれた腕を探して放心状態となり、飛び散る血と臓物をさらして、無数の兵士が命を落としていく。

この阿鼻叫喚を、激しく動き回る望遠の手持ちカメラ、狭いシャッター開角度、レンズに付着する肉片と血糊、そして機銃掃射や迫撃砲の激しい爆音で、スピルバーグは冷徹にスクリーンに焼き付けて行く。

冒頭24分間が変えたもの

冒頭における24分間のノルマンディー上陸作戦シーンは、後続の戦争映画のルックを劇的に変えてしまった。戦争経験者が「あとは臭いさえあれば、これは本物の戦争だ」と語ったというのも、さもありなん。

以後の『ブラックホーク・ダウン』(2001年)や『ハート・ロッカー』(2008年)といった戦争映画、さらには『コール・オブ・デューティ』のようなFPSゲームのリアリズム表現にまで、このシーンの衝撃は波及している。

技術的に特筆すべきは、まず撮影監督ヤヌス・カミンスキーが用いたカメラ・ワークだ。手持ちの望遠レンズで兵士たちを追いながらも、あえて狭いシャッター角度(通常の180度ではなく、90度以下まで絞り込んだと言われる)を設定することで、映像は独特のカクつきを帯びる。

これによって戦場の混乱や時間の断絶感が観客の身体に直接刻み込まれる。さらにレンズに付着する血糊や泥は、従来なら「撮影ミス」とされる要素をあえて残し、現場の偶発性をスクリーンに固定した。

また、音響設計の革新性も見逃せない。ガンショットや爆発音は一律の「効果音」ではなく、距離や位置関係によって変化するリアルな空間音響として設計された。

とりわけ炸裂音の直後に耳をつんざく高周波ノイズ(いわゆる耳鳴り効果)を挿入することで、兵士の聴覚的ダメージを観客自身に追体験させる。サウンド・デザインは単なる臨場感の演出を超え、観客の身体を戦場に晒す装置となった。

こうした映像と音響の統合的アプローチは、ハリウッドの戦争映画における「再現主義」を一変させた。従来の戦争映画が俳優の演技やセットの精密さでリアリズムを追求していたのに対し、『プライベート・ライアン』は観客の感覚そのものを戦場に没入させることに主眼を置いたのである。

この24分間は単なるオープニングではなく、映画史におけるリアリズムの基準点を更新してしまった、いわば“戦場映像のプロトタイプ”なのだ。

倫理を語る映画から、感覚を叩きつける映画へ

かつてスピルバーグは『シンドラーのリスト』(1993年)で、戦争の愚かしさをテマティック(主題論)的に語り上げた。しかしながら『プライベート・ライアン』では、文字通り観客を戦争最前線に放り投げることによって、メカニカルに戦争そのものを提示してしまう。

倫理を語る映画から、感覚を叩きつける映画へ。そのため、この映画からは不思議なくらいに掲げるべきテーマが立ち上ってこない。

もちろん、物語的な枠組みは存在する。ミラー大尉(トム・ハンクス)率いる部隊に「戦争で3人の兄を失った末弟のジェームズ・ライアン二等兵を探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ」という命令が下される。

ライアン二等兵を救出すべく敵地の前線に向かうが、一人、また一人と犠牲者が続出。やがて、なぜ彼1人のために部隊全員が命をかけなければならないのか?という疑問が部隊から噴出する。この基本プロットから読み取れるのは、「人間の生命とは等価値ではないのか?」という根源的な問いである。

しかし、物語が示す答えはあまりにも感傷的で、バランスを欠いている。ここには「国家のための犠牲」と「家族のための救出」が二重写しになっており、アメリカ的イデオロギーの特有の匂いが漂う。

つまり、愛国主義とセンチメンタリズムが奇妙に共存してしまうのだ。スピルバーグが時折陥る「過剰なセンチメンタリズム」に、間違いなく『プライベート・ライアン』も絡め取られている。

アパムの射殺――無垢の崩壊と観客の共犯

物語のラストで、通訳として部隊に同行していたアパム(ジェレミー・デイビス)が、捕虜のドイツ兵を射殺する。この場面は、映画全体の矛盾と問いを凝縮した瞬間だ。

戦闘経験も乏しく臆病で、部隊の中で浮いた存在だったアパムは、常に「兵士になりきれない兵士」として描かれてきた。その彼が最後に引き金を引くのは、戦場が人間をどう変えてしまうのかを突きつける。これは「弱者の成長」として見ることもできるが、同時に「暴力に完全に染まった瞬間」とも読める。

捕虜の処刑は明確に国際法違反である。しかし物語の文脈では、観客は「やっとやったか」と安堵すら覚えてしまう。このとき観客は、暴力を肯定する欲望を共有する“共犯”へと巻き込まれる。スピルバーグはこのシーンをヒーロー的カタルシスとしては描かず、あえて観客にその倫理性を委ねているのだ。

ここには、スピルバーグ映画に繰り返し現れる「無垢の喪失」が表れている。『E.T.』(1982年)や『ジュラシック・パーク』(1993年)で描かれた子供的な純真は、アパムの優しさや臆病さに継承されていた。しかし最後にはその“無垢”を捨て去り、兵士へと変貌する。その代償が、敵兵の死である。

この結末は、戦争映画史の中でも特異な位置を占める。『西部戦線異状なし』(1930年)や『フルメタル・ジャケット』が描いてきた「捕虜の扱い」という倫理的ジレンマを引き継ぎつつ、『プライベート・ライアン』は観客が感情移入した人物にそれを遂行させることで、問いの鋭さをさらに増幅させた。

アパムの射殺シーンは、戦争の狂気が人間をどう変えてしまうのか、そして我々がその暴力をどこまで受け入れてしまうのかを、最後の最後に突きつける。『プライベート・ライアン』を“戦争そのものの提示”と呼ぶならば、このシーンはそのもっとも倫理的に危うい核心部なのである。

ナショナリズムとセンチメンタリズム

ここにはスピルバーグ自身の二面性も刻まれている。『E.T.』や『ジュラシック・パーク』で「無垢な子供の驚異」を描いた作家が、ここでは「子供のように無力な兵士の死」を描いた。永遠の少年の眼差しを持つスピルバーグが、老成した作家として「無垢の死」を直視せざるを得なくなったのだ。

公開当時、『プライベート・ライアン』はアメリカ国内で「英雄的戦争映画」として熱狂的に受け入れられる一方、ヨーロッパでは批判も少なくなかった。批評史的にも、この映画は特異な痕跡を残す。あの蓮實重彦でさえ、

評価を超えて私が(スピルバーグ作品で)一番好きなのは、『プライベート・ライアン』なのです。しかし私たちは、この映画を好きになっていいんでしょうか?(笑)

と自虐的に語っている。僕もまた蓮實重彦と同じく、この異形の映画をこれからも偏愛し続けることだろう。

DATA
  • 原題/Saving Private Ryan
  • 製作年/1998年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/170分
  • ジャンル/戦争
STAFF
  • 監督/スティーヴン・スピルバーグ
  • 脚本/ロバート・ロダット
  • 製作/スティーヴン・スピルバーグ、イアン・ブライス、マーク・ゴードン、ゲイリー・レヴィンソン
  • 撮影/ヤヌス・カミンスキー
  • 音楽/ジョン・ウィリアムズ
  • 編集/マイケル・カーン
  • 美術/トーマス・イー・サンダース
  • 衣装/ジョアンナ・ジョンストン
CAST
  • トム・ハンクス
  • トム・サイズモア
  • エドワード・バーンズ
  • バリー・ペッパー
  • アダム・ゴールドバーグ
  • ヴィン・ディーゼル
  • ジョヴァンニ・リビジ
  • ジェレミー・デイヴィス
  • マット・デイモン
FILMOGRAPHY