『ペイルライダー』(1985)
映画考察・解説・レビュー
『ペイルライダー』(原題:Pale Rider/1985年)は、ゴールドラッシュ期のカリフォルニアで、鉱山開発会社の圧力に苦しむ小規模採鉱者の集落に、一人の牧師が現れる物語。少女ミーガンが父親と共に生活する集落は、悪徳資本家ラフードの手下による妨害と暴力にさらされており、住民は移住か抵抗かの選択を迫られている。そこへ名乗ることなく現れた牧師は、住民の依頼を受けて彼らの身を守る行動を取り、ラフード側は彼の過去を探ろうとしながら対決の準備を進める。集落が移住を余儀なくされる寸前、牧師の存在によって力関係が揺らぎ、両者は緊張状態に向かっていく。
西部劇を幽霊譚へと変貌させた、イーストウッドの異色作
クリント・イーストウッドは“最後の西部劇”として製作した『許されざる者』(1992年)で、従来のジャンル的約束事を徹底的に破壊し、自らの手でアメリカ西部劇を葬り去った。
しかし、その6年前に撮られた『ペイルライダー』(1985年)は、古典的フォーマットを踏襲しながらも、どこか不気味な空気をまとった異色の作品である。
舞台はゴールドラッシュ期のカリフォルニア。街を牛耳る権力者に土地を奪われかけた峡谷で、14歳の少女が神に救いを祈る。その直後、聖書「ヨハネ黙示録」の一節を体現するかのように、青白い馬にまたがった黒衣の男(イーストウッド)が現れる。
彼の姿は西部劇の典型的ヒーロー像とはあまりに異質だ。ブーツは歩くたびに甲高い金属音を響かせ、背には数え切れぬ弾痕。生者というよりも、撃ち殺されながら蘇った“死者”を思わせる存在感である。
しかも彼は「牧師」という意外な仮面をかぶる。銃を抜けば容赦なく敵を葬り去るが、同時に聖職者として共同体に受け入れられる二重性を持つ。その矛盾こそが、彼を単なる流れ者ではなく、“神の代理”として死をもたらす死の騎士へと昇華させる。
「牧師」という衣は、共同体に救済をもたらす象徴であると同時に、死者を葬り去る執行者の衣でもある。イーストウッド演じる“プレイチャー”は、まさにその両義性を体現する存在。彼は慈悲深い保護者であると同時に、必然の報いとして悪を裁く死の執行人でもある。
この二面性を観客に直感させるのが、彼の無言の振る舞いだ。多くを語らず、ただ背後に漂うのは「必ず死を連れてくる」という冷ややかな気配。まるで死神の鎌のように、彼のコルトは“神の秩序”を回復するための不可避の道具となる。
不死の肉体を持つガンマン
イーストウッドのペルソナは、初期から一貫して“殺しても死なない”イメージとして成立してきた。それを確立したのは、セルジ・レオーネの〈名無しの男〉三部作だろう。
『荒野の用心棒』(1964年)では胸当てで銃弾を欺き、『夕陽のガンマン』(1965年)と『続・夕陽のガンマン』(1966年)では、弾雨の只中でも生還してしまう。ここで描かれたのは、肉体の脆さを物語から切り離す神話的ヒーロー像だ。
のちの『奴らを高く吊るせ!』(1968年)では、冒頭で私刑にかけられながら生き延びる“準・復活”の図が露骨に描かれ、『ガントレット』(1977年)では、蜂の巣になりながら目的地へ“通り抜ける”図が、現実味を超えた不死性の見せ場として機能する。
そして、舞台を都会へ移した『ダーティハリー』(1971年)でも、この不死性は“都市型西部劇”と姿を変えて延命され、銃弾より先に神話が先行した。
その系譜を決定的に換骨奪胎したのが『荒野のストレンジャー』(1973年)。ここでイーストウッドは、〈名無しの男〉をほとんど地獄からの訪問者として再定義する。
町全体に赤いペンキを塗らせる悪夢的な演出は、彼が“あの世の論理”に属する存在であることを半ば公然と示すものだ。つまり、不死身のヒーローという〈表象〉は、この段階で既に“超自然”への扉を半開きにしていた。
『ペイルライダー』は、その扉を最後まで押し開ける。背中に刻まれた無数の弾痕は、かつて撃ち殺された事実=死の経験を物理的に可視化する傷であり、同時に“戻ってきた者”の烙印。ここでのイーストウッドは「去るべき生者」ではなく、「留まるべくして呼び戻された死者」だ。
青白い馬と牧師という外観は、黙示録のパレードに連なる視覚的記号であり、彼の銃口はもはや個人的復讐の道具ではない。悪徳保安官や資本家の横暴を“必然の罰”として確定させる、超越的な執行装置として作動する。
光と影で描く「生と死の狭間」
撮影監督ブルース・サーティースが手がけた映像は、西部劇の様式を踏まえながら、その奥に“幽玄”を刻み込んでいる。
屋外では黄金の陽光が木々や岩肌を際立たせ、あたかも神話の舞台装置のように大自然を輝かせる。一方で屋内は闇が支配し、人々の顔が判別できないほど暗がりに沈み込む。
極端なロー・キーとハイ・キーの切り替えは、観客を「この物語は現世の話なのか、それとも冥界の物語なのか」という曖昧な境界へと誘う。まさに画面全体が「生と死の狭間」の揺らぎを可視化しているのだ。
さらに注目すべきは、画面構図の選択。クラシカルな西部劇が水平線を強調し、開かれたフロンティアの広がりを象徴してきたのに対し、『ペイルライダー』は斜面や山岳の“垂直性”を軸に据える。
これは単なるロケーションの選択ではない。垂直性は、天と地のあいだを行き来する存在=亡霊ガンマンの本質を映し出す視覚的符号である。彼は天から遣わされた天使か、地獄から這い出した死者か――観客はその二択のあいだで揺れ続ける。
つまりサーティースの撮影は、物語を“幽霊譚”として読ませるための視覚的レトリックであり、イーストウッドの存在を単なる人間から“超自然的執行者”へと昇華させる補強線なのである。
光と影、水平と垂直――その対比のすべてが、生と死の境界線をかき消し、観客に「彼はどこから来たのか」という問いを突きつける。
成仏し損なった“幽霊ジャンル”としての西部劇
表層的には「流れ者のガンマンが悪党を退治する」という定型的な物語に見える。だが、その実体はジャンルそのもののメタファー。
サム・ペキンパーに代表される60〜70年代の〈反西部劇〉が英雄神話を脱神話化し、80年代には商業的にも失速したことで、西部劇は“肉体”を失い“記号”だけが残った。『ペイルライダー』(1985)は、その“記号”が黄泉帰りしたかのようにスクリーンをさまよっている。文字どおり牧師姿の亡霊ガンマンとして。
かくして『ペイルライダー』は、クラシックな西部劇を幽霊譚として再解釈した“前奏曲”となった。その後の『許されざる者』では、法も秩序も回復しない、救済なきアメリカの姿が描かれることになる。
『ペイルライダー』は単なる過渡期の作品ではなく、ジャンル終焉へのプロローグとして位置づけられるべき西部劇なのだ。
- 原題/Pale Rider
- 製作年/1985年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/116分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 脚本/マイケル・バトラー、デニス・シュリアック
- 製作/クリント・イーストウッド
- 製作総指揮/フリッツ・メインズ
- 撮影/ブルース・サーティース
- 音楽/レニー・ニーハウス
- 編集/ジョエル・コックス
- 美術/エドワード・C・カーファグノ
- クリント・イーストウッド
- マイケル・モリアーティ
- キャリー・スノッドグレス
- シドニー・ペニー
- リチャード・キール
- クリストファー・ペン
- リチャード・ダイサート
- ダグ・マクグラス
- ジョン・ラッセル
- チャールズ・ハラハン
- マーヴィン・J・マッキンタイア
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